金子哲也 経歴



スリースカンパニーの始まり

スリースカンパニーの創業者です。小さい時から一言居士といわれておりまして、なにか一言言わなければ気が済まない子供でした。都内にある航空高専を卒業しまして、当然のように「変ジニア」と呼ばれておりました。暫く実社会で働き、自営業をしてみたり、その後某大学に入り、ビジネスを学びました。その後再度会社に就職しまして、会社から米国の某大学院に入りまして、MBAを取得しました。某大学、某大学院としましたのは取り立てて有名校でないだけでなく、むしろLess Competitiveな大学ですので、むしろ悪い評価を避ける意味で以下のように記載しました。

帰国後同じ会社の営業マンとして都内を数年にわたりかけずり回りましたが、この間に学んできたMBAの知識が生きる場面がたくさんありました。しかしその後社内のあれやこれやがございまして、他の会社に誘われ、移籍しました。その会社で与えられた業務は米国に駐在事務所を作って、米国製品の輸入の窓口になるような業務で、この間に忘れていた英語が久しぶりによみがえるような時間を持つことが出来ました。全米にあるたくさんの会社の方々と電話だけのお付き合いですが、お知り合いになることが出来ました。

その後同様にあれやこれやとございまして、帰国と同時に退職して、現在のスリースカンパニーを立ち上げました。会社というのはやはり権限を持つ方と意見が合わなくなるというか、そりが合わなくなりますと、下役がそこから離れざるを得ないということになります。帰国したらどうしようか、結局どうも自分は人間関係がうまく築けないHumanistic type personで、Task Orientedな、あるいはPower Orientedな人たちとうまくやっていけないタイプだと思いましたので、帰国後は自分で何かを始めようと心に決めて帰国しました。

帰国して最初の日曜日に20歳ごろから通っていたプロテスタント教会に久しぶりに出席しました。そして椅子に座り、配られた週報(説教などの案内)に目を落とすと、そこに以下のような聖書の言葉が書かれていました。

イザヤ書 43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」

なにか新しいことに挑戦しようとしている自分の心が見透かされたというよりも神が「Go for it」と背中を押していると確信した日でした。

それから30年倒産することもなく、当然曲折はありましたが、振り返れば楽しい30年であったと神に感謝をするものでした。道を歩いているときに聖書の箇所に促されて、クリスチャンとなって以来、すこぶる平安で楽しい生活をさせていただいたと思います。その時の言葉は:

「ルカの福音書9章23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得るのである。 25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。 」

なにか未知の世界に飛び出すときに必要なのは自分が寄りかかることが出来るもの、それが金子にとっては聖書であったということになると思います。

以上が株式会社スリースカンパニーの始まりなのですが、それでは今まで会社としては何をしてきたのか。

会社の業務内容

会社の草創期には主としてアップル対応のソフトの輸入を手掛けておりまして、それを日本全国にあるパソコンショップに販売するというものでした。米国で発刊されているパソコン雑誌を眺めて面白そうな商品を輸入するという業務はコンピュータの草創期と重なって、毎月があたらしいワクワクするような商品がでてくるそのような時代でした。その後マックが現れて、人々が通信をコンピュータ経由で行うということがささやかれ始めて、1990年代に入るといわゆるプロバイダーという会社が生まれてきました。弊社も1995年からサービスを開始しました。この10年のインターネットの利用環境はおそらく他の業界の数倍の速度で変化をした時代ではないかと思います。

始めは数十社しか過ぎなかったプロバイダーが数年で数千社に増えたと記憶しておりますが、過当競争の中で、なにか収入の柱になるような業務がないのかと思案しているときに、中国が勃興し始めて、比較的安価にいろいろな商品が入手可能と解り、機械工具を輸入することになりました。この分野は実は何も知らない分野でしたので、後に輸入品の安全基準が十分か否か試験を受ける必要があるなどと言うこの業界に居る人間には当然のことが知識としてなく、大いに苦しめられたものでした。この間ソフトの開発やパラグライダーの輸入や特許料を払って、日本で制作して販売するなどということも行ってきました。

今後の方向

今では若い人たちに輸入や英語を用いて国外の他社とコミュニケーションを取らねばならないときに大いに助けられるのではないかなどと考えていますが、まだ具体的にはなにも決めておりません。現在の業務を継続しながら、時間をかけて模索してゆきます。時代は常に流動的に変化しておりますので、立ち止まることは許されません。常に新しいことにトライしてゆかなければ、時代に取り残されますので、これからも新しいことに挑戦してゆきます。

2016年3月25日記す


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