キリスト教再建運動の5条件



  

第一条件−前提主義


 キリスト教再建主義者は、聖書において啓示されている三位一体の神お一人が、宇宙の中心であり、人間の生活と思想とあらゆる活動の目的であることを信じます。

 また、この神は、人間の認識の出発点でなければならないと信じます。つまり、人間が善と悪を知ることができるのは、神がそのように言われたからにほかならない、と信じます。人間が勝手に善と悪を決めることはできず、神が善であると言われたものが善であり、神が悪であると言われたものが悪であると考えます。神は、聖書においてその御心を啓示しておられ、人間が神の御心にしたがって歩むために必要かつ十分な知識を示しておられます。聖書は、誤りのない神の御言葉であり、この基準にしたがって、世界に存在するあらゆるものを評価しなければならないので、キリスト教再建主義者は、神を証明したり、聖書を証明したりすることから認識を開始しません。神と聖書は人間の世界認識の前提であると主張します。


第二条件−統治主義


 聖書によれば、神が万物を創造されました。それゆえ、キリスト教再建主義者は、万物は神のご意見にしたがって統治されなければならないと主張します。自分勝手に行うことのできる領域は人間に与えられておらず、神は、あらゆることにおいて王であり、主権者です。ある国家において、その司法権が及ばない地域は存在しません。例えば、日本において、ある村だけは、日本の警察が入ることができない、というような独立した地域は存在しないので、日本の国内において、あらゆる行為は日本国の法律によって裁かれるべき対象となります。それと同じように、この宇宙全体は、神の創造によるので、神の司法権が及ばない領域は一つとして存在しないのです。ですから、政治・経済・芸術・スポーツ・文学・教育・家庭・学問・・・あらゆる領域は、神の御言葉に従わなければならず、人間は、神の副官として、万物を神の御心にしたがって統治するために地上に置かれたのです。

 神は、人間を創造された時に、「生めよ。殖えよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記1・18)と命じられました。人間は、地球を管理し、それを素材として、神の御心に適った文明を建設するために創造されたのです。「キリスト教は霊的な領域を扱っており、物質的領域については、人間は自由に支配できる」と考えることはできません。神は霊的領域も物質的領域もどちらも創造されました。そして、人間は、霊的現実を物質的領域において現す責任があるのです。霊的存在であられる神が、どのように素晴らしいお方であるかを、人間はこの物質世界を通して示さなければならないのです。人間は神の栄光の物質的顕現のために創造されています。

 例えば、キリスト教世界において、無数の病院や孤児院が作られました。神の愛は、このようにして具体的に目に見える形で、愛の業として現実化されなければなりません。「行いのない信仰は死んでいる」とヤコブは述べています。「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものなのです。」(ヤコブ2・15−17)


第三条件−神法主義


 神は、契約において、人間が守り行うべき掟をお定めになりました。それは、基本法としての十戒と、それを具体的な事例に適用した判例法です。聖書にある様々な教えはすべて、この二種類の法律から出ています。この法律は、けっして旧約聖書の人々に対してだけ述べられたのではなく、全人類に対して述べられたのです。イエス・キリストは、

  私は律法と預言者を廃棄するために来たのだと思ってはならない。廃棄するためではなく、むしろそれを確立するために来た。律法の一点一画たりとも、天地が滅びない限り、また、すべてのことが起こってしまうまで、けっしてすたれることはない。(マタイ5・17−18)

と述べられました。たしかに、様々な儀式律法など、今日では、キリストがそれを成就されたので、実施されていないものがあります。しかし、それが廃棄されたものでないことはこの御言葉から明らかです。キリストという実体が現れたので、動物犠牲はもはや不要となったが、その中に含まれている義の掟は依然として有効です。旧約律法も新約聖書の教えもすべて、人間にとって義の基準として有効なのです。


第四条件−契約主義


 神は人間と契約を結ばれました。契約は、人間を通して神が宇宙を統治されるために人間との間に結ばれました。人間は神の権力代行者であり、そのために神の似姿に創造されたのです。知的・肉体的能力はすべてこの契約実行の目的のために創造されているので、だれであっても、神の契約を守る者は霊的・知的・肉体的に祝福され、破る者はその契約の規定にしたがって霊的・知的・肉体的に罰せられるのです。祝福と刑罰の現れ方は人によって異なります。しかし、だれであっても、この契約の絆から自由な者はおらず、契約が定める賞罰から自由な者はいないのです。一見すると、悪者でも繁栄しているように見えます。しかし、それは毒麦のたとえにあるように、毒麦の正体が明らかになるために一時的に繁栄を許されているだけなのです。神はけっして裁きを付けずにおく方ではありません。

  だまされてはならない。神は侮られる方ではない。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる。(ガラテヤ6・7)

 人類の始祖アダムは、この支配の契約を破ったために、神の呪いを受けました。それは、肉体的・霊的な死であり、労働における呪いでした。労働そのものが罰ではなく、労働に刑罰の意味が付加されたのです。しかし、神は、イエス・キリストを十字架上で罰することによって、信じる者のすべての罪責を取り除かれました。それによって、人間は契約の刑罰から解放されたのです。キリストを信じる者は、たとえ訓練としての苦しみを受けることがあっても、けっして裁かれることなく、地上においては霊的・知的・肉体的祝福を受けます。キリスト者は、肉体的にも霊的にも死にません。「死は勝利に飲まれた。」(第1コリント15・54)とあります。

 万物は、神によって創造され、たえず神の摂理の中にあるのですから、万物の意味は神が決定されます。しかも、それは、神とアダムの間において結ばれた契約の中に置かれており、アダムが支配すべき対象として意義付けられているのですから、この世界に存在するあらゆるものは、「契約の中にあるもの」と述べることができます。それゆえ、「契約的」という形容詞のつかないものはこの世に一つも存在しないのです。例えば、目の前にあるコンピュータは、「契約的コンピュータ」です。科学は、「契約的科学」でなければ本当の科学ではありません。人間による被造物統治に役立たない科学は科学ではありません。神の存在と権威を前提としない科学は本当の科学ではありません。
 万物は契約の文脈の中におかれているのですから、万物は神の契約の構造という枠組みによって理解されねばなりません。政治であれ、経済であれ、芸術であれ、あらゆる事柄が正しく定義し直され、その本来の姿に回復するには、神の契約の構造によって再構築される必要があります。契約の構造にしたがって、権威、支配の方法、規則、賞罰、継承が定義し直されたものだけが、本当の政治であり、本当の経済であり、本当の芸術になるのです。


第五条件−後千年王国主義


 神は、全能のお方であり、ご自分の御心を完全に成し遂げる力のある方です。神は、私たちに「御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように地上でも行われますように。」と祈れ、と言われました。祈れと命じられた以上、それが実現することは確実です。「どうせ無理だろうけど、祈ってみなさい。」というような不誠実な方ではありません。神の御心はこの地上において実現するのです。神の勢力は、悪魔の勢力よりも強く、必ず勝利に勝利を重ねます。

 キリストは昇天された時に、「出ていって、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によって、バプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28・19−20)と命じられました。全世界の国民はキリストに服従するようになります。それは、キリストが「天においても地においても、いっさいの権威が与えられている」からであり、「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」からなのです(マタイ28・18、20)。私たちが宣教することによって、世界は時間とともに神の国と変わっていきます。歴史は、このことを証明しています。はじめは10人ほどの弟子たちが、ついにはローマ帝国を覆し、その勢いはヨーロッパ全体をキリスト教化してしまいました。そして、ヨーロッパが全世界に出ていって、あらゆる地域はキリスト教の影響を受けるようになりました。これは、すべてキリストの王権によるのです。キリストが万物の主権者なので、このことが可能になったのです。これからも、神は御自身の民を通じて、悪魔の帝国を滅ぼすために、戦いを遂行されます。キリスト者は、日本におけるサタンの力を見て、驚き恐れてはなりません。キリストが王であり、そして、共にいて下さるので、必ず私たちは勝利するのです。

 人間は、地球を管理するために立てられた管理者です。キリストによって救われた者は、管理者として、あらゆる領域を神の御心にしたがって管理しなければなりません。かつてインドにおいて、未亡人は夫の火葬の火の中に飛び込まなければなりませんでした。そうしないと、貞淑な女と呼ばれなかったのです。また、祭りの時に、大きな山車に飛び込むと天国に行くことができると信じて多くの人々がその下敷きになって死にました。キリスト教が伝わるようになって、このような悪魔的な風習が次第に世界から消えていきました。キリスト者の使命は、福音を伝えることだけではなく、回心した人々がキリストの命令を守るように教えることにあります。全世界の国民を弟子とせよ、との命令は、全世界の国民の生活・思想・文化全体を神の法にしたがって作り変えることを意味しています。その時に、人間が創造された目的が達成されるのです。

 そして、この働きを地上においてどのように熱心に行ったかによって、永遠の世界における報いが変わってきます。自分に与えられた才能・能力・財産・家庭・職業を御国建設のために用いたか。このことが評価の対象となります(ルカ16・1−13)。

 この働きは、一代限りのものではなく、家庭を通じて、宣教を通じて、代々発展させなければなりません。子供を神の御心にしたがって教育し、神の有益な兵士として訓練する責任を親は与えられています。財産は、次の世代が神の御国の拡大のために利用できるように、信仰的な子供に相続させなければなりません。ヤコブに相続が移って、兄エサウが退けられたとおりです。神の御心は、キリスト者の家庭が強くなることであり、世の中において強力な影響を持つことです。

 キリスト者が聖霊の助けによって自覚的に努力する時に、あの人手によらずに切り出された石(キリスト)が全地を覆うようになったように、神の御国は拡大し、日本と世界はキリストの御国に変わっていきます。

  そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちた。(ダニエル2・35)

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