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サルが全部進化したのではなく、サルの一部分が、必要を覚えて進化>
したのであり、その必要は、サルのすべてについて言えることではないのです。>
だから、サルの一部分だけが類人猿に進化して、それ以外は進化することが>
不要だったので、そのまま残ったのです。
これも、同じように、猿人のすべてが進化したわけではなく、猿人の一部が、ある必要性から進化する可能性は同じように存在するわけですから、猿人が絶滅してしまったということを説明できません。なぜ、中間種と呼ばれる、種と種をなだらかに結ぶ様々な中間的な形質を持つものが、サルのように一部は進化して、後はそのまま環境に適応して残るという可能性がなかったのでしょうか。もしあなたの理論が正しければ、進化しないで残ったこれらの、例えば、は虫類と両生類の中間の動物や、魚類が陸地に上がった過程を示唆する、様々な中間的な生き物がなぜ普遍的に(1種とか2種とかではなく、また化石だけとかでもなく)存在しないのでしょうか。サルから、徐々になだらかに人間に発展したならば、その跡を辿ることができるほどに、証拠となる類人猿などが(少なくともわずかでも)存在するはずでしょう。なぜ、実際においても、化石においても、断絶があるのでしょうか。化石において、魚類の化石だけ、両生類の化石だけ大量に出土するのに、なぜ、その中間のものがそれらと同じくらい大量に出土しないのでしょうか。
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創造論者の唱える科学理論は最低です。なぜならば、それは反証が>
不可能でからです。反証不可能な創造論者の理論よりは、反証の余地>
を残している進化論の方がましです。
たしかに、創造論者の唱える理論というものについては、前にももうしましたように、眉唾が多い。
そして、創造論を論証するために、こじつけの理論を提出したところで、あまり役に立たない。
ある人は、詩篇の中でDN
Aのらせん構造が記されていると主張しました。しかし、当時のユダヤ人が理解できないことを聖書が記していると考えることはできません。これは、聖書の読み方の間違いです。聖書の直接の読者は、当時の人々であって、20世紀の現代人ではない。パウロが書いた手紙は、紀元1世紀の人々に対しての手紙であって、現代のクリスチャンに対してあてたものではない。こういった聖書解釈の原則を犯している間違いというものはあります。
聖書は、あくまでも科学の教科書となるべく書かれた書物ではなく、人間と神との関係を記して、人間の作られた意味や使命について著述された契約の書であるわけですから、それ以外の目的で読むことはできないというのが私の考えです。ですから、聖書に基づいて、科学の理論を作ることはできません(ただし、人間が進化によって作られたということは、聖書の人間観と真っ向から矛盾することでありますから、これを受け入れることはできません。)。
さて、こと科学理論ということになれば、反証不可能であるという前提に立つ理論は科学(つまり、論理実証主義者が主張する科学)ではなくドグマなのでしょう。ただし、反証不可能なドグマに基づくものは科学と呼べない、という主張は、「絶対的真理に到達できない人間が行う科学は『常に』反証の可能性を残すという約束事を守らねばならない」と主張する「不可知論者」の定義と合わないというだけの話であって、「人間は啓示によって絶対的真理に到達できる。神は存在する、創造があったというドグマに基づいて行われるものを本当の科学と呼ぶ」と主張する我々にとっては、やはり無意味なのです。(そもそも近代科学は、聖書の神の創造秩序を知ることから始まりました。)
自分が定義した科学だけを科学だと主張することは勝手ですが、その基準を異なる前提に立つ者につきつけても不毛だと思うのですがいかがでしょうか。