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懐疑論



 懐疑論というのは、ヒューマニズムによるヒューマニズムの認識能力に対する自己批判だったわけです。

 つまり、「神や聖書なんかいらない。俺たちだけでやっていく。」とデカルトは(実質的に)述べたのですが、それに対してヒュームは「えっ?ほんと?じゃあこれはどうなの?」といろいろと論を展開して人間の認識能力を批判した。

 

 例えば、デカルトは「自然は法則によって成り立っている。この法則を発見することによって、世界を正しく認識し、支配できる。」と述べたわけですが、ヒュームは、「だけど、法則が発見されても、その法則がいつでもどこでも適用されるという保証はどこにもないじゃないか。」と問い掛けた。もちろん、経験上、自分が持っているコップを手放すと、引力の法則で下に落ちることが判る。しかし、それはあくまでも、「経験上」という紐付きの真理でしかない。

 

 経験によらずに、ただ、もっぱら、原理だけで考えると、次の瞬間に(その存在否定の証明ができない)神とか精霊などが手を伸ばしてそれをストップする可能性を否定はできない。それが万が一の確率であったとしても、そういった予測不可能なことがあるかもしれない。

 

 だから、有限な人間の理性だけで何事も確実な断定をすることは「原理的に」不可能じゃないか、ということになった。

 

 それ以外でも、ヒュームが提示した問題はいろいろあるのですが、人間知は、ただ蓋然的なことしか把握できないということを明らかにしたわけで、それを乗り越えるような理論はいまだかつてないわけです。

 

 今回KGさんは、この人間知の限界について説明されたわけだけど、それに対してYさんは、そういった懐疑論を認めてしまえば、知の探求としての科学は成立できなくなるから、何か次善策が必要だ、ということで、反証主義を提示された。

 

 つまり、「間違いだ」という反証がなければ、それを真理であると認めよう、という提案をされた。

 

 それで科学は不可知論から救われると考えたのです。

 

 しかし、これはあくまでも、蓋然性の域を出ていない認識の理論であって、単なる約束事でしかないわけですから、「原理的に」不可知論から救われたわけではない。

 

 たしかに、これによって、科学は、「実際的に」不可知論から救われる可能性があるわけですが、「原理的に」ではない。

 

 この区別をはっきりさせてもらいたかったわけです。なぜならば、そもそも、今回の議論の流れとして、KGさんの指摘は、原理に関することであって、実際についてではなかったからです。

 

 また、原理的に克復したということと、実際的に克復したということはまったく次元の異なる問題であるのに、実際的に不可知を克復する可能性のあることを、原理的に克復したと混同する傾向が人間にはあるからです。人間は、容易にそういった誤謬に陥りやすい。

 

 とくに、ヒューマニズムの宣伝機関としての今日の学校は、あたかも、そういった人間知に無限の可能性があるかのような教育をしている。それゆえに、今日、かくも多数の人々が、無根拠に進化論のような起源の問題を科学であるかのように誤解し、キリスト教を非科学的というレッテルを貼っている。

 

 帰納的、実証的な科学というものが全能ではなことを本気で理解していないと、Yさんのように、口では限界を認めつつも、宗教的なドグマを「とんでもないこと」というように軽々しく断定することになる。

 

 彼は、こういった点で、トンデモ科学愛好家なわけで、自分がドグマや権威を嫌っていると言いながら、容易に、自分が批判している相手と同じようにドグマにしたがって生きている。

 

このような軽率な宗教批判は、原理と実際の区別が出来ないことから起こっているわけです。