神学を啓示の上に置く危険
神学を啓示の上に置く危険
(Q)神学を強調するあまりに、「チャールズ・ホッジの注解書を読まなければ、ローマ書はわからない」という類の意見には同意しかねます。
(A)神学はあくまでも、人間が神の啓示を理解するための助けとなるものです。ですから、聖書から直接私たちに教えてくれるものが基礎となるということは宗教改革の土台だったはずです。チャールズ・ホッジの注解書を読まなければローマ書はわからないという意見は、神学を聖書の上に置く姿勢であり、私も同意できません。
いわゆるカルヴァン主義の一部の人々のへんな伝統が出ているのではないかと思います。これは自己満足の世界であり、あらたな教皇制の出現の危険性のある発言だと思います。カルヴァン主義者の一部には、このように啓示の上に神学を置く傾向があります。
ただし、神様は、旧約聖書だけではなく、旧約聖書を教える祭司やレビ人をも任命された。新約においては、教える任にあたる教師や牧師を任命されたことも事実ではないかと思います。聖書において、律法学者やパリサイ人が非難されているのですが、彼らの地位や務め自体が非難されているのではなく、彼らの偽善が非難されているのです。彼らは、モーセの位置を占めているとイエス様も言っています。彼らは、教師であるから、彼らに聞きなさいとも言われています。しかし、行いを真似てはならない、と。
神は、労働を命じられ、それを尊ばれます。神が与えて下さった聖書は、あたかも自然界のように複雑です。一つの教理がまとまって書かれているわけではない。そして、時代背景も複雑です。そこで、自然界において、科学が必要なように、聖書においては、神学の働きがあるのでしょう。神学者は、聖書の時代背景を調べたり、様々な箇所を相互に関係づけて、神の一貫した御心をその複雑な全体の中から読みとろうとします。これは、自然界において、分子や原子の構造が分かるようになるのに何百年もかかったように、長い時間がかかることがあるでしょう。
聖書から三位一体の教理を自分で導き出すよりも、神学の歴史を調べて、その私たちの先輩のクリスチャンが残してくれた遺産からそれを学ぶのが近道であり、また、そのことを神様は私たちに求めておられると思います。
私たちは、牧師や神学者の存在を神がその人々を立てたがゆえに受け入れる必要があるのではないかと思います。
もちろん、神学はあくまでも人間が「こうではないか。」と頭をひねって考え出したものですから、誤りもあります。しかし、誤りがあるから、全部ダメだということにはならない。その中に、真理が含まれているわけですから、聖霊の導きを受けつつ、それをできるだけ正しい形で学びとる作業が求められているのではないでしょうか。
さて、ご指摘のように、神学において、あまり徳を高めない本もあります。ですから、そのような本を読むよりも、もっと、自分や教会の徳を高める書物を読むほうがよいし、聖書をじっくりと読む必要があることに同意いたします。
神様は、分業を尊ばれます。人は、全員が神学者に召されているわけではありません。ある人は、牧師、ある人は教師、ある人は、サラリーマン、商店主、運転手、・・・様々な職業に召されているのです。さして重要でもない神学の専門的な学びについて、全員が時間を割いて学ぶ必要はないと思います。それぞれが、与えられた賜物に応じて自分の務めを果たし、それによって互いに仕え合うように命じられていると思います。
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