無律法主義の教会に行くことの害
無律法主義(*)の教会に通うことによって、生じる害は甚大です。
ある無律法主義の教会の牧師の家庭を訪れたときに、びっくりしました。
私が応接間に入ろうとすると、小さな男の子がやってきて、「このやろう、入るな。」と言って、私をとおせんぼうするのです。
そこで、お父さんかお母さんが叱るのかな、と思ったのですが、叱りません。「ゴメンナサイね。こういう子なんですよ。」としか言わないのです。
その後でも、お客さんが他にもいたのですが、客の前で兄弟達が異常な騒ぎかたをするのです。
また、そのような教会に行ってみてびっくりするのは、子どもが礼拝中であろうと、教会員が静かに講義を聞いているときであろうと、ギャーギャー騒ぎ回ることです。
場所をわきまえるとか、回りの人に迷惑をかけてはならないというしつけが出来ていないのはなぜなのでしょうか。
自分の子どもを戒めると、「小さいからわからないのよ。」と妻に怒られるんです、とその教会の友人は言っていました。
しかし、子どもはわからないのでしょうか。
私の知っている無律法主義ではない教会では、礼拝の間は子どもは本当に小さな子でも、きちんと静かにしています。礼拝中はおとなしくしなさいと言われているからです。礼拝が終わって自由な時間になると、本当に元気に走り回っています。
その教会では、子どもはムチを使ってしつけられます。しかし、子どもには、まったく陰や暗いところがありません。むしろ非常に明るい。
その教会の牧師は、子どもにムチをふるう時に、特定の場所に連れていきます。その壁には「むちを控える者は、その子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(箴言13・24)という御言葉が張ってあります。
こうしないと、自分の弱さから子どもに手加減してしまうからなのです。神様が命じたことを実行できなくなることを恐れているのです。
子どもは愚かです。知恵がありません。
「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。」(箴言22・15)
子どもをしつけずに放置することによって、子どもは愚かなままに大きくなります。そして、しつけることができない年齢になって、今度はそのしっぺ返しを食らうようになります。
「わがままにさせた子は、母に恥を見させる。」(箴言29・15)
ある教会で、よく問題を起こす人がいました。教会の中で平気で牧師を大声で批判する。他の人たちと集まっては、教会の批判、牧師長老に対する悪口を言っていました。仕事もせずに奥さんを働かせて、ぶらぶらしていました。そのお母さんは普通の人なのですが、「甘やかして育ててしまいました。恥ずかしい。」と言っていました。
神の御言葉は絶対です。自分の知恵に頼って、子どもをしつけなかった人は、必ず、自分の子どもを通してその不従順の実を刈り取るのです。
「心をつくして主により頼め。自分の悟りに頼るな。」(箴言3・5)
子どもを叱ると言っても、自分の基準でしかってはならないと聖書は語っています。
ある人はよく子どもをしかっているのですが、どうもおかしいのです。
彼はこのように言いました。
「ボクは、この子をオルガニストにしようと思っているんです。」
神は、その子の倫理面の違反を責めよと言われたのであって、その子がどのような職業につくかをコントロールしなさい、と言われたのではありません。
人がどの職業につこうが、どの人と結婚しようが、倫理的に問題がない限り自由なのです。それを親の理想を押しつけて、親の期待どおりの人間に育てようなどと言うのは、親のわがままであって、親が神様になっているのです。
神は、両親に、子どもの養育を委ねられました。それは、子どもが神の契約を相続できる者に整えるためなのです。
「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。」(申命記4・40)
もし子どもが神の命令を守らなくなれば、子どもは神の相続を受けることができず、しあわせになることができません。人間は、神の規範に逆らうことによって、神から受けることができる祝福を受けられなくなるのです。
無律法主義の教会において、神の律法は無視されます。ですから、基準がなくなり、人間の掟が幅をきかせるようになります。
つまり、牧師や長老などの有力者の個人的な意見が、教会の規則のようになってしまいます。
しかし、賞罰を加えるのは、神であって、牧師や長老ではありません。牧師や長老のおきてに従っても、子どもが神の祝福を受けられるように整えることはできません。
無律法主義は、子どもの将来を破壊します。そして、子どもを通して、自分の祝福も失うのです。
(*)無律法主義とは、クリスチャンは、キリストの贖いによって無罪とされ、律法から解放されたので、いかなる律法も守る責任から解放された、と説く教えです。
しかし、聖書において、「律法によらず、キリストの十字架の贖罪によって救われた」とは言われていますが、「律法を守る責任から解放された」とは書いていません。
「律法を破った際に下る神の刑罰からは解放された」のですが、「律法を守る義務から解放されたわけではありません。」
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