朝日新聞は同性愛賛成論者である。
朝日新聞本年2月1日付け朝刊に「同性愛授業で−−思春期、悩む子いるから・・・」という見だしの記事が載っていた。内容は、同性愛への偏見を捨てさせる教育の取り組みを肯定的に紹介するものである。
現代の日本の無神論マスコミと無神論教育の末路が、同性愛であるということがここからも分かるのである。
神を故意に拒む偶像礼拝者に対する最終刑罰はホモセクシュアルである。
偶像を崇拝し続けると、神は抑制の手綱を取り去り、彼らは心の歯止めを失う。そして、ついには絶対にやってはいけないことまでするようになる。(ここで、偶像とは、文字どおりの像を意味することもあれば、自分の創作した宗教、アイドル、思想も含む)。
「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえって無駄なことばかり考え、そのいつまでたっても悟ることのない心は闇に覆われたからである。自分では賢者であると言い張りながら愚者になり、永遠なる神の栄光を朽ちゆく人間や鳥や四つ足動物や爬虫類の像のようなものに変えた。それゆえ、神は、彼らを彼らの欲情のままに汚れの中に投げ捨てられ、そのために彼らは、互いの体を侮辱し合うようになった。・・・こうして神は、彼らを恥ずべき欲情の中に投げ捨てられた。女たちは自然の用を不自然なものに変え、同じように、男たちも女の自然の用を無視して、互いに欲情に燃え、男どうしで見苦しいことを行い、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けたのである。」
下記に問題の記事を引用する。
「同性愛の問題を学校教育に取り入れる試みが、少しずつ広がっでいる。中学校や高校の授業などで同性愛を取り上げた実例が、一月二十一日からの二つの教研集会で発表された。「自分は性的に異常ではないか」と悩んできた生徒からも反応が返ってきているといい、教師たちは性的少数者の人権に配慮した教育の必要性を訴えた。
先生が「告白」/劇のテーマ
岡山での日教組主催の教研集会では、京都府内の高校で数学を教える土肥謙一郎先生(36)が、同性愛者であることを公表した同僚教師の話を発表した。土肥先生は二年前の文化祭で、教職員劇の担当した。同性愛をギャグとして織り交ぜるかどうか迷い、同僚の高取昌二先生(36)に相談すると、分厚い手紙を渡された。高取先生が自らゲイであることをつづった「手記」だった。中学生のころから男性に恋愛感情を抱きながら「そんなはずはない」と自己否定し続けたこと。「性」が話題にのぼるたびに、肉体と精神が引き裂かれるような苦しみを味わったこと。同性愛について正しい知識を得てようやく、自分を認めることができたこと…。
劇では、この体験をストーリーの柱にすえることにした。文化祭当日。ゲイの主人公を大声で笑っていた生徒たちも、肉親にさえ理解してもらえない孤独感や悩みを主人公が告白する場面になると、急に静かになったという。
埼玉県上尾市立東中学校の小島佐知子先生は昨年三年生を対象に「異性愛と同性愛」の授業をした。事前のアンケートで「好きな相手」に同性または両性を挙げた生徒が、男女とも数%あった。
授業では、愛には様々な形があることを説いた。多くの資料を紹介し、恋愛の対象が同性に向かっている生徒に、自己肯定ができるよう手助けをした。
小島先生は「多くの文献から、同性愛者が自分の性的な関心に気づくのは思春期だと知った。だからこそ、中学校で取り上げる必要性がある」と訴える。全教などが滋賀で開いた教研集会では、大阪の私立女子高校で生物を教える池田久美子先生(34)が「性的少数者の人権」のテーマで発表した。一昨年、三年生の授業で、エイズや同性愛について取り上げた。その授業で池田先生は自分も同性愛者であることを打ち明けた。その後、何人かの生徒が無記名の感想文を寄せた。
「私も今まで本気で好きになった人は女の子でした…自分が同性愛者か異性愛者か、いまだに分かりません」「実は、自分も今、女の子と付き合っています」
今年度も一年生の授業で同じテーマを取り上げた。池田先生は「結婚して出産するのが普通の道と一般には考えられているが、それができない人たちもいるという情報を学校で教えておかなければ。人知れず悩む子どもたちは必ずいる」と話している。」(朝日新聞1999年2月1日朝刊)
おまけ:
こういった記事が社会の代表的な新聞に載っていることに不自然さを感じなくなったら、その国民はすでに異常であり、神の裁きの領域に入っているのである。