両親の権威2
>その後3/21の貴方の掲示「両親の権威」を拝見したときに、
>「しまった」と思い非常に不気味で怖い思いをしましたました。
遊び人様。遊ぶのはいいんですけど、カルヴァン主義キリスト教とカルト宗教の区別もつかないようでは、ちょっと困りものですね。
「両親の権威」において、どこが「怖い」のでしょうか。ムチが怖い?
ムチっても、鞭をふるって訓練するなんてのは、「トムソーヤの冒険」などでも、盛んに登場しますよね。いわゆる「古き良き時代」のアメリカは、子どもを鞭をつかって教育したものですよ。
これは、聖書の教育方針なんです。鞭をふるうと言っても、やたらに暴力にうったえるというのではなく、また、親の気まま勝手に行うものではなく、熟慮が必要なのです。
場合によっては、体罰は子どもの心を傷つけてしまう場合もあるでしょう。ですから、どんな場合でも鞭を振るうことが最善だというのではなく、必要な場合だけなんです。
「子どもを愛する」ということは、体罰を用いてでも、矯正しなければならない場合もある、という意味なんです。
「両親の権威」において述べたかったことは、両親が子どもに対して教育する権威の根拠はどこにあるのか、を述べたかったのです。
古代ローマにおいては、父親は子どもを殺したり、捨てたりする権威を与えられていました。しかし、聖書は、両親の権威は、体罰までです。体罰以上のことはしてはならないのです。
それも、自分の好みによって鞭をふるったり、しかったりすることは禁じられています。
両親は、聖書の御言葉にしたがって、子どもを矯正する権威があるし、また、責任もあるということなんです。
もし、あなたが主張されるように、進化によって生命はここまで発展してきたと主張するならば、両親が所有する子どもの養育権や責任をどのように定義できるのでしょうか。
どこまでが許されて、どこから両親の養育の責任が終了するのでしょうか。
進化論というのは、このような問題に対して、いかなる根拠も提示できないんですね。
だから、今日のように日本において年間500万人もの赤ちゃんが、生みの親のわがままによって、大量虐殺されているんです。これは、ヒトラーのホロコーストどころではない。スケールが違うのですね。
創造者がいて、その創造者が決定した命令があるという前提に立たなければ、人間は、本質的に、社会の法律を守っていれば、有罪ではないんです。だから、日本のような堕胎が合法であるような社会では、殺人者が罰を受けずに巷を闊歩するということが当たり前にあるのです。
人間が創造者によって造られて、創造者と契約を結んでいるという前提が聖書にはあります。だから、その契約に違反することはできない、と。
でも、あなたは言われるかもしれません。「私はそのような創造者は存在しない。」と。
もちろん、そのような立場を持つことはそれぞれの自由です。私にはそれがどうのこうのと指図する権威はありませんし、責任もありません。
ですから、そのご自分のもっておられる前提に従って生活されることは、対人間においては、法律の許す範囲内で、個人の自由なのです。
しかし、神に対しては、そうではありません。神は存在して、その責任を追及されます。
なぜならば、私たちの好むと好まざるとに関わりなく神は、行いに応じて人を裁かれるからです。
「わたしはあなたがたを、その行いの実にしたがって罰する。」(エレミヤ22・14)
だから、堕胎中絶をした親は、キリストの贖罪を信じない限り、間違いなく永遠の刑罰を受けます。
しかし、キリストの十字架の刑罰が自分のためであると信じるならば、そのような罪も赦されます。
「すべての人は、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3・24)
神が存在するなんて、証拠がないではないか、と言う人がいますが、自然界を見て、また、人間を見るならば、間違いなく神は存在するということが分かります。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1・20)
それでも否定するならば、それは、もうピリオドを打たざるを得ない。もう言うべきことはありません。
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