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質疑応答集


 


神の実在について3



(Q)ぼくが前提にしている神について、いままで書いてきたのですが、わかりにくかったですか。確かにぼくは「神が存在すること」を前提にしているのです。その「神」が有神論者の頭の中に「存在」する、という事を前提にネ。

 神が存在しないのは、ぼくの頭の中に存在しないということなのです。つまり上文は、ぼくが存在する根拠のない神が存在すると信じ込まないことを証明するために書いたのです。ぼくが、今の時点で神の実在を信じない事と、神が実在するかどうかは、無関係でしょう。あなたの主張が正しければ神は実在するのですから。


(A)ふ〜っ。あのですね、あなたが神の実在についてどのような態度を取っているかなんてことをわざわざこの場で説明していただかなくてもいいんですよ。あなたがどんな神様を信じていようが、あなたがアマテラスを信じていようがアラーを信じていようがいまいが、あなたが無神論であろうが、あなたの自由なんですよ。ある意味で。

 「有神論者が神存在を証明してくれたら、自分の頭の中に信仰として入ってくる神」を前提としている、というのは、逃げですね。自分の立場を、批判する相手に依存しているなんて、キャンタマついてるんですか、って言われますよ。

 あなた、モラトリアムじゃないんだから、俺は神を信じる、いや、信じないで、つっぱったらどうですか。あなたが、信仰する可能性のある神を予期しているなら、信じてみて、よかったらそれでよし、悪かったら、信仰を捨てる、でよいではないですか。どーも、無神論者は、寄生的なところがありますね。宿主がなければ、何もできない。自分の名誉を掛けて有神論者を否定しようと躍起になるんだけど、結局自分は有神論者なしでは、生きていけない。これは、結局、無神論という論にならない論の性格によるのでしょうね。無神論という言葉自体が依存的ですね。 (*)


   繰り返すのも限度に来ていますが、もう一度、言います。神は存在するというのは、キリスト教の前提であって、それは証明の対象には絶対になりません。なぜかと言うと、神を証明するということは、人間の理性の自律性を許すことに等しいからです。例えば、ある人が「おれは神を証明してみせる」と述べるとします。その時に、無神論者が、「公平な立場を取るために、あなたは、まず信仰という眼鏡をはずしてください。」と迫ります。そこで、彼は「信仰という眼鏡」を外しました。すると、どうでしょうか。彼は「信仰、つまり、神の聖書啓示と聖霊による内的啓示によらなければ、人間は正しい認識を行えない」という、神が教えられた信仰と矛盾することを行ったのです。つまり、キリスト教は、信仰という眼鏡を掛けなければ、人間は「人間存在の有限性故の限界、と、罪故のゆがんだ認識力」を克服できないと主張しています。ですから、彼がたとえ神を証明したとしても、それはキリスト教の神とは違うものになります。なぜならば、キリスト教の神は「そのような認識方法では私を認識することはできない」と主張しているからです。キリスト教が信仰的認識をやめるときに、キリスト教は自己矛盾に陥るのです。

 では、無神論者はいかなる眼鏡も掛けていないかというと、掛けています。それは、無神論という眼鏡であり、それを通してあらゆるものを見ようとします。そして、彼らは「神抜きでも人間は正しい認識を得られる」と主張しますので、クリスチャンからすると、誤った前提にたって物事を判断しています。それゆえ、彼らの議論には信頼はおけないことになります。(**)

 だから、前提に手をつけることは無駄だと言っているのです。これらは互いに信仰であり、証明すべきものではないのです。前提として据えた場合にどのような結果が生まれるか、について考察すべきなのです。もうこれ以上、同じことは繰り返しません。

(*)ソ連に『科学と宗教』っていう雑誌がありました。それはソ連共産党の無神論宣伝のための本だったのですが、内容が、無神論のこのような性格を端的にあらわしていましたね。その本全体が、「クリスチャン否定」なのです。つまり、クリスチャンという存在がなければ、その本は存在できないのです。「クリスチャンが電車で子どもたちに聖書の文句を書いたカードを渡していた。けしからん。」という投書や、「なぜキリスト教は嘘か?」などという特集記事。こんな非建設的な雑誌だれが読みますか。そんなソ連も70年で終わりましたね。資本主義国を否定しながら、資本主義国から多額の資金援助を受けているなんて、大人のやることじゃないですね。

(**)このような認識論の立場を神学用語で Presuppositionalism と言いま す。

参照: Cornerlius Van Til, Apologetics, Presbyterian and Reform Publishing, CA, USA.

(Q)ネッシーが存在するかどうかを議論する場合、まずは存在すると主張する方が、その存在を証明する根拠を示すのが普通ですよね。そしてその根拠が疑う余地のない物である事が証明されれば、ネッシーは存在すると、判断されるでしょう。

ですが示された根拠が誤りであったり事実無根であることが証明された場合、ネッシーの存在は否定されたと考えるのが、普通でしょう。この時、逆上したネッシー肯定論者が否定論者に、「ネッシーが存在しないと言うなら、存在しない事を証明してみろ」と言ったとします。この要求に否定論者は答えられないでしょうね。

(A)ネッシーが存在しないことを証明できないのかなあ。ネス湖ってそんなに広いんですか?もぐっていって調べてもわからないんですか。

(Q)なぜなら否定論者は肯定論者の根拠を検証し、それが誤りであると判断したのです。「存在を証明する根拠の、存在しないモノが存在しない事(同語反覆ですねこれは)」を、どうやって証明するのでしょうか?

(A)だから、同じように否定論者も根拠を提示して、例えば、そのネッシーだとかがいない根拠だっていくらでもあるでしょう。例えば、こんな寒い地域に、水温も低いところに変温動物で、なおかつ巨体を持つものが住むことはできない、とか、食べる餌が足りなすぎるとか、そんな大きな図体しているのに、歴史上2、3回しか現れていないというのはおかしいとか、そういった否定論者の根拠を提示してもらえば、肯定論者だって、それを検証していくという手もあるでしょう。だから、キリスト教の神が存在しない根拠をまず挙げてくださいよ。根拠を挙げて、それなりに人を納得させるような理由を提示しなければ、こっちだって「あなたの神はふたしかだ、だからあなたの議論もいいかげんだ」と選挙宣伝カーのように連呼されても、またですか、という感じですね。

 もし、神存在の否定が難しいなら、「神を最終解釈者として持たなくても、人間の認識は不完全ではない」ということを証明していただけませんか。私たちは、「(1)人間存在が有限なので事物について完全な知識を持ち得ない(2)人間は罪によって認識能力がゆがんでいる」ゆえに、人間は聖書という神の外的啓示と聖霊による内的啓示を前提として物事を正しく認識できる。という認識論を持っています。ですから、もし無神論者であるあなたが私たちに向かって「あなたは不確かな神を前提としている」と主張するなら、私たちも、「あなたは不確かな認識に立っているので、あなたの判断を信用することはできない」と主張しますね。この2点について、誤りであることを証明してください。でなければ、私は、あなたの批判は、一方的な信仰宣言であって、証明であると考えませんね。

 ちょっと心配なんですが、まさか、「罪や聖霊などは、クリスチャンの考えであって実在するかどうか不明だからあなたがたの認識論はふたしかだ」なんて言わないでくださいよ。まだ、罪や聖霊は実在しないということが証明されていないわけですから。そのように言うには、まず罪や聖霊は幻想であることを証明してください。それには、法を与えた神の存在の否定証明をしなければならなくなるでしょうが。とにかく、前提を疑っていけば、きりがないんですよ。もうあきらめたらどうですか。

それから、キリスト教の神を否定し、それを防護するというのは、かなり古い歴史があります。だいたい聖書に矛盾を探そうとか、神存在を疑うだとか、っていうのは、昔から無数の人間がやってきたことで、私たちみたいな浅学非才なヒヨッコたちが熱くなってやるべきもんじゃないと思いますね。時間の無駄ですよ。やるんだったら、まず、私たちはきちんと歴史を勉強して、キリスト教についてドーシヨウモナク無知で不見識な状態から自分を解放する必要があるでしょう。「盲人蛇におじず。」では、端から見ていればこっけいだけど、答える当事者にとってみれば、エネルギーの無駄ですね。





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