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最終的権威の必要性について





>神と人間の対決という図式になぜ固執するのでしょうか。

 神と人間の対決という図式は、キリスト教の基本です。神は人間と戦って、主権をもぎとろうとしている。それがこの歴史の意味である、と聖書は主張しているのです。

 つまり、イエスの死というのは、パリサイ派のユダヤ人が支配階級として君臨しており、自分たちが築き上げた法律の体系の中に、イエスという革命家が現れ、独自の法体系を構築しようとしたところから起きた事件だったのです。

それに対して、聖書は、彼らではなく、イエスこそ正統的な支配者であると主張した。それゆえ、マタイの系図や、様々な奇跡は、この正統性を証明するために記された。

 この世界を創造したのは三位一体の神ヤーウェであり、その支配に対して、独自に支配権を獲得しようとしたのがわれわれの先祖であるアダムであった。アダムは、「この実を食べるならば、あなたがたの目が開かれて、あなたがたは神のようになる。」というサタンの誘惑に負けて、その善悪を知る実を食べた。神との契約の代表者であるアダムから生まれるものは、すべて神の敵であり、それゆえ、神との和解をしないかぎり、永遠に排除されることになる。

 それにもかかわらず、神は人間と和解しようとされ、御自分のひとり子イエス・キリストを人間のために十字架にかけて殺し、人間のすべての罪責をそこにおいて取り除いた。それゆえ、この和解の業を信じた人間は、もはや神の主権を覆そうとする革命家ではなく、神の味方となった。かえって、彼は、神の主権を確立するために、神の敵と戦うようになる。伝道とは、人間という独自の主権を確立しようとした革命者に対する和解の勧告であり、あくまでも和解を拒む者に対する、死の宣告なのです。

 つまり、キリスト教は、宇宙において神の主権に並び立つ別の主権者を排除することを目的としている戦闘的宗教なのです。あらゆる主権者が絶滅するまで、キリスト教は戦い抜く。それは、お示しくださったように、神の絶滅を企てる者に対する様々なのろいにおいて、歴史内において、また永遠において、実現していきます。

 神は、神の死を宣言する者の精神を狂わせる。神の法秩序を無視する者の健康を害し、様々な伝染病にかからせ、ついにはその身体を死に至らしめる。神の絶滅を図る国家の経済を混乱させ、ついには滅亡に至らしめる。

 この絶滅の使命は、ある場合においては、人間に与えられるし、ある場合においては直接神がそれを実行される。人間は、神の命令がない限り、けっして神の敵を滅ぼすことができない。むしろ、神の敵が望むこと(もちろん神の法体系を崩さない限りにおいて)を行えと命じています。つまり、神の敵が食物に困っている場合には、彼にそれを与えよ、と言われる。しかし、これは、あくまでも神の敵が繁栄してその主権を確立するためではなく、むしろ、それを破壊するためである。

 「それゆえ、もしあなたの敵が飢えているならば、彼に食べ物を与えなさい。もし彼の喉が渇いているならば、彼に飲ませなさい。というのは、そのようにすることによって、あなたは彼の頭の上に燃える炭火を積むことになるからです。」(ローマ12・20)

 神の民は、神の敵に善を行うことによって、彼の刑罰を促進する。神の民は、最終的に神の主権を確立するために働くのですが、その方法が、神の法を犯すことになってはならない。神の敵を苦しめ、神の敵を死に至らしめることが神の主権を確立することになると考えた人々は、歴史において、キリストの名を貶めました。

 神の民が、神の敵のために善を行うときに、神は、敵の滅亡の時期を早めます。そして、その刑罰の規模は大きくなります。それが「炭火を積む」という表現によって示されているのです。

 ですから、キリスト教の慈善事業が、(例えば、マザーテレサが、仏教徒は一番すぐれた仏教徒になるように勧めたように)異なる法秩序をも許容し、それを促進するためのものであると考えるならば、それは、神の主権を差し置いて、独自の主権を打ち立てる多神教を擁護することになり、反キリストの業になってしまうのです。あくまでも、キリスト教の慈善は、神の敵が神と和解するように根気よく説き続け、そのような説得にもかかわらず最終的に和解を拒否する場合には、その滅亡が早く、しかも徹底したものになることを期待することを前提として行われるものでなければならないでしょう。



>最終権威なんてものは存在しないんです。
>・・・
>最終権威を持たないシステムは、一神教よりも
>柔軟性があり(どんな神でも受け入
>れます)、寛容であり(能力という点以外で差別される
>ことはありません)、まず第一に進歩性がある(新しいこと
>を受け入れますからね)。このいずれもキリスト教がやって
>こなかったことばかりです。


キリスト教といっても、いろいろありますが、どのようなキリスト教をさしているのでしょうか。スコラ派(カトリック)なのか、ルター派なのか、それともカルヴァン派なのか。

私の信仰しているカルヴァン派のキリスト教は、三位一体の神ヤーウェと、その自己啓示である聖書を認識の最終権威として据えます。したがって、人間存在の起源とか、倫理とか、思考の根拠、そういったものを定義するための土台がここに存在する、と考えます。

そのような権威を認めないというのも、一つの権威になるわけで、結局、「不完全性定理」(これがどのようなものであるか興味があります)にしろ、「不確定性原理」にしろ、何らかの権威を前提にせずには、人間は思考どころか生存もできなくなるのではないでしょうか。

例えば、もし柔軟性や寛容、発展ということを価値とするならば、ではどうしてそれが価値なのか。それを用いてキリスト教を非難するならば、どうして非難できるのか、非難するとか批判する行為が成立するためには、何らかの事柄が価値があって、その価値を設定する権威が存在するからではないでしょうか。

 あるクリスチャンが中絶を非難したとします。すると、中絶は悪いことではない、と中絶賛成論者は主張します。聖書は、(胎児を含めて)他者の生命を奪うことを禁じています。それは、自分がそのように感じるから、とか、社会がそのように認めているから、という訳ではなく、聖書において啓示された三位一体の神がそれを禁じているから、という権威があるからです。

 もし権威を一切認めなければ、何かの行為を批判することは一切できなくなります。国家も、法律を定めることはできません。もし法律において殺人を禁じる場合、その法律に対して、ある殺人者は、独自の権威、法体系(すなわち、この場合、殺人は罪ではない)を持っているので、その法律を無効であると宣言します。

 それに対して、最終権威を認めないことを前提とする国家は、一切その殺人者を罪人であると断罪することはできません。

 すなわち、権威を設定することなしには、いかなる法秩序も正当性を持つことはでいないということになるのです。それならば、国家も社会も秩序を維持することができないので、秩序維持のために、法律を力づくで施行します。つまり、国家が国民を統治することができるのは、国家に力があるからというだけなのです。そして、国民が、自らを律して殺人を犯さないのも、国家によって罰せられることをさけるからにほかなりません。

 いかなる権威をも設定しない、というのは、想念の上では可能かもしれませんが、それを実際の生活に適用することは不可能です。教育も不可能です。自分の娘が売春をしていても、それは悪だからやめなさい、とは言えません。売春をすることが病気に感染しやすくなり、病気に感染した娘を見ることがいやだから、売春を禁止するのだ、というならば、では、病気に感染しなければ、誰かれとなくセックスをしてその代金をもらっていいのか。もし、売春を禁止するのにいかなる理由もないならば、マクドナルドで働くことよりも、援助交際をするほうがよっぽど金になるのだから、そちらに走るのは当然であり、それを禁じる親は娘にとって口うるさい存在にしかならない。



>それゆえ、私は健全な懐疑を信じます。
>ということです。この場合「神」を
>「検証の為の論理システム」と読み替えてください。こう
>した種類の懐疑的精神あるいは反権威的精神(たとえば、
>日本人の「和の精神」って本当は無責任の肯定じゃないの?)
>を健全な形で持ち続けることはとても
>大切だし、このようなものを持ち続けないものを科学
>とよぶことはできません。だから、富井さんの言われる通り、
>進化論を自明のこととして考える人々は宗教人でしょう。

ある意味で賛成です。ただし、
ここでも「検証の為の論理システム」に普遍性がないことが致命傷となります。 「検証の為の論理システム」を各人が自由に持つことができるというのが多神教なわけですが、それらが互いにぶつかった時はどうするのか。前の問題と重複しますが、互いの利益の最大公約数を取ることによって社会が成立するという契約説は、互いに害を与えない行為については何も言えないのです。ここに、社会を成立させる上で重大な欠点があるだろうと思うのです。つまり、獣姦とかは、その趣味がある人が、個人で楽しむ行為ですから、それを悪と言うことはできません。

さらに、最大公約数が、社会の少数派の人々の生存を危うくする場合はどうなるのか。つまり、ゲルマン人が多数派を占める社会において、セム系の民族が邪魔者扱いされる。ついに、彼らには生存権は認められない、という法案がゲルマン人が多数派を占める国会で決議される。そして組織的に虐殺が行われる。社会の多数派を占める人々の「検証の為の論理システム」が、これを許容する場合、少数派の「検証の為の論理システム」は、その有効性を失うということになる。しかも、その「検証の為の論理システム」のどれを国家の運営において採用するかは、その力関係によって決定することを、誰も否定できない。なぜならば、それを否定する「検証の為の論理システム」が絶対であると誰も主張できないからです。






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