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相対的価値体系の問題点

 

>「絶対的価値体系」の一番の弱点は、「他の絶対的価値体系」と融和

>しないと言う点ではないかと考えます。

>例えば、「イスラムのジハド」に対して「キリスト的価値体系」を持

>ち出しても無効で有るばかりか、かえって「対立」しか生み出さない

>のではないでしょうか?

 

 相対主義の問題点は、人間の権力への野心というものを過小評価しているところにあると思います。

 聖書における根本のテーマは、権力闘争です。

 だれが権力を持っているのか、神かサタンか。

 人間は、もともと神に創造されたのだが、サタンに魂を売ってしまったために、サタンの奴隷になった。そして、神の権力を否定して自分の王国を作っている。

それを破壊し、神の権力を確立するためにキリストがやってきた。

 キリストは、御言葉を信じる者を神の軍隊の一員として用い、世界中において神の王国を拡大している。歴史とは、この神の国の拡大のために存在する。

 神の国の拡大の方法は、ただ宣教だけである。

 「剣を取るものは、剣によって滅びる。」

 「心の貧しい(へりくだる)者は、幸いである。その人は地を相続するからである。」

 

 これが、キリスト教の中心的な思想です。

 

 権力は真空を嫌うので、相対主義では現実の社会をまとめあげることは事実上無理があります。民主主義がすぐれているのは、ある特定の個人や集団がわがまま放題にならないように、権力を分散するという点にあります。

 17−18世紀に、聖書的キリスト教によって作られた制度は、権力の分散を目的としています。

 法治国家の誕生は、カルヴァンのジュネーブにおける立憲政治から始まっています。

 カルヴァン主義であったピューリタンたちは、イングランドやスコットランドにおいて、絶対王制に対して、王が法を超越した存在ではなく、法の下にいるべきだとかんがえ、そのような制度を作り上げました。

 ピューリタンたちが作ったアメリカもこのように権力の分散を目指しています。

 

 日本国憲法もこのピューリタンの影響を濃厚に受けているのです。

 

 しかし、ピューリタンたちは、いかなる権力も不当であると考えたかと言うと、そうではありませんでした。権力はキリストにある、と考えたのです。

 これは、もちろん、キリスト教の歴史の中において築き上げられた信条の基礎に立っています。カルケドン公会議において、キリストの二性一人格という教理が確立されました。

 

 キリストは神であると同時に、人でもあった。この地上において、キリスト以外の人間に、絶対権力を与えることはできない。

 こういったヨーロッパの民主主義改革の恩恵を世界中が受けて今日の近代法治国家があるわけですが、同時にヨーロッパには、ルネサンスの人間主義の流れもあったわけです。そして、この流れは啓蒙主義において、キリストの権威すらも否定する完全な人間理性による自律的統治が主張されました。この果実がフランス革命だった。

 アメリカは植民地時代に、各州は聖書の神を主権者とする法律ができていましたが、メイソンの影響を受けた「創立者」たちは、合衆国の憲法を作る過程で、「三位一体の神」ではなく、「理神論の神=ユニテリアンの神」を基礎に据えてしまいました。

 

 近代の国家の成立は、このように宗教改革の流れと啓蒙主義の流れの二つが混在してできあがっていると言ってよいかと思います。

 啓蒙主義の流れは、人間の理性への信頼の上に成り立っています。その流れが濃厚であればあるほど、HIGHER LAW ではなく、人間が自ら時代とともに編み出していく法律に依存していくようになります。

 進化論思想が19世紀に入って、この流れは加速していきました。西欧の一つの中心思想である自然法の考えは、進化論の導入によって次第に消えて行きつつあります。

 

 啓蒙主義の一つの純粋型である共産主義は、人間の理性(党の指導)によってうまく社会を運営できるのだ、と考えました。ですから、為政者が変わると、コロコロと善玉悪玉が入れ替わる。ソ連や中国を見ればこのことは歴然としています。ある時に英雄だった人間は、政治担当者が入れ替わると、とんでもない極悪人になる。

 幼稚園児が四人組を退治する劇を見たときに、人間理性に頼ることがいかに虚しいかを感じました。北朝鮮のマスゲームを見てもそう思います。

 

 さて、聖書に立つと、人間は罪人であり、単独の罪人に恒久的な政権を持たせてはならない、という政治思想が生まれます。利権が発生しにくい制度を作らなければならないと。アメリカの大統領はどんなに人気があっても8年で退陣しなければならない。これに対して、人間は罪人ではなく、人間が独自に作り上げた法でもやっていけると考えるヒューマニズムによって、20世紀には、億単位の人々が虐殺されたり、収容所に送られたわけです。

 超越を否定して、自然だけでよいとする内在論は、神の横暴を拒否する代わりに、人間の横暴を招かざるを得ない。

 それは、聖書が主張するように、人間は権力を欲しがり、それを恒久化したいという野心があるからなのです。

 相対主義の弱点は、この人間の現実を見ることができない、という点にあります。

 みんなで仲良くルールを作っていけばよいではないか、というのは、一つの幻想であることが歴史の中において証明されてきたわけです。

 

 平和だ、平和だ、と叫んでいるうちに、ヒトラーはヨーロッパ諸国を次々に制圧していった。宥和ではだめだ、とチャーチルは叫んだ。

 この世界は、権力闘争の場所であり、中立状態があるというのは大きな幻想です。

 神か人間か、これが、聖書が述べている主要なテーマです。

 パリサイ人は、ユダヤにおいて自分たちの恒久的な支配体制を築き上げた。それに対して、イエスが、人間ではなく、神の支配を受け入れなさい、そうしなければ、ユダヤは神によって滅ぼされてしまう、と警告したのです。

 

 主権者である神を受け入れない者は、同じように排除される。これは、国家民族だけではなく、個人においてもそうなのです。権力は真空を嫌う。真空は長続きしないのです。真空は、神か人間のいずれかによって埋められてしまう。

 

 神も人間も権力を奪取しようとしています。正当な権力はどちらにあるのか。

 聖書は、世界を創造した神にこそ主権があると主張します。

 そして、神の支配を受けるときにだけ世界は安全と平和を獲得することができる。

 国連ビルの入り口には旧約聖書のミカ書の言葉が書かれています。

 

  「彼等はその剣を鍬に。その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを学ばない。」(4章3節)

 

 しかし、その前の箇所には、このようにあるのです。

 

  「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れてくる。・・・それは、シオンから律法が出、エルサレムから主の言葉が出るからだ。」(4章1−2節)

 

  戦争がこの世から消えるのは、ただ、神の主権が確立された時だけであると言われているのです。

 神の主権を認めない間は、戦争を避けることはできない。人間は、不当な主権を確立するために、互いに向かって手を挙げ続けるだろう。

 超越を確立する戦いの中から生まれた民主主義も、内在を求めるヒューマニズムの混入を許したために、人間の横暴を許してしまった。

 超越的な倫理がなければ、内在は、強者の専横に悩まされる以外にはない。

 

 解決は、次の言葉にある。

 

「多くの異邦の民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えて下さる。私たちはその小道を歩もう。』」(ミカ4・2)