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質疑応答集


 


なぜバルト神学は難解なのか?


 バルト神学が難解なのは、複雑な実存主義哲学の背景があるためだと思われます。

 聖書に対する疑い、つまり、進化論などの登場によって、聖書は客観的な事実については疑問符を打たなければならないのではないか、という意見が(19世紀前半から20世紀の今日にいたるまで)ありました。そこで、バルトは、キリスト教を救うために、実存主義的なアプローチによって、解決を試みた。

 聖書は客観的な事実を述べたのではない。それゆえ、科学的・考古学的・歴史的に誤りを含んでいるので、聖書の記述をそのまま神の言葉と認めることはできない。それでは、キリスト教はどのようにして聖書が神の言葉であることを示すことができるのだろうか。

 そうだ、事実を主観に依存させればよいのだ。つまり、信仰者が信じる時に、その客観的な事実を証しせず、それゆえ、神の言葉とは言えない聖書が、俄然神の言葉と変わる、と考えればよいのではないか。

 これは、いわば苦肉の策とも言うべきもので、それゆえ危機の神学と呼ばれるわけです。聖書の信用を取り戻すために、聖書自体の信頼性を回復する(例えば、進化論の誤りを正すとか、科学的・考古学的な信頼性を示す、聖書の正しい読み方[聖書は契約的書物ゆえ契約的解釈を行わなければならない]など)のではなく、信仰する人間の側の主観に事実を依存させるというカント的な逆転を行ったと考えられます。それで、バルトは、非常に苦しいつじつまあわせをせざるを得なかった。だから難解なのではないでしょうか。

 あの文章において、述べたかったことは、神学というよりも、聖書的な思想を理解するには、聖霊が必要だということでした。つまり、どのような単純なことでも、例えば、イエスが私の罪のために死なれた、ということでも、生まれながらの人間、つまり、聖霊を受けていない人間にとっては、理解を越えたものである、と。

 文章の難解さは、その人の思想にごまかしがあったり、論理的に一貫していなかったり、読者に対する配慮が足りなかったりすることによってわかりにくいということもあるので、一概に神学が理解できないのは聖霊を受けていないからだとは言えないと思います。

 バルト的なキリスト教の救済は、どうしても、事実を主観の上に置かないために、脆弱であると思います。つまり、実存主義なり、カント主義なりの思想的な流行がおさまれば、同時に消え去っていくものではないかと考えます。

 やはり、聖書は、事実に基づくものであると、つまり、進化によるのではなく、創造によって世界は成立した、聖書に記されている様々な登場人物や出来事は実際に存在した、と考えるのでなければ、本当にキリスト教を救済したことにはならない、また、事実が主観よりも上に来るということが前提とならなければ、現実を動かす力はないと、思われます。








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