聖書と絶対的価値基準
わたしは、もし、聖書が相対的な真理しか述べておらず、人間の絶対的な価値
基準にならならいならば、パウロが言うように、クリスチャンとはもっとも愚か
な人間であるということになると思います。
もし、復活がなければ、最後のさばきがなければ、現在苦労して迫害に耐えな
がら伝道しているのはいったい何になるのか。パウロは、復活の望みをめざして
頑張っていたのでしょう。自分の苦労がけっして無駄になることがない、だから、
神からの召しに従ってこの地上生涯は苦難の連続であってもいい、と。
「現在の苦難は、将来受ける重い栄光と比べれば取るに足りない。」と。
ですから、聖書についての疑惑というものは、早いうちに除いておかなければ
ならない。共観福音書にしても、ヨハネにしても、矛盾があります。時期のずれ
とか、様々な箇所が相互に食い違っている。また、旧約聖書においても、ヨブ記
は、実際の事実を記録した書物とはどうしても言えない部分に満ちています。
聖書の系図は、現代人から見ればはなはだしくいい加減なものです。系図によっ
て、ある人物が欠けている。
それじゃあ、聖書は相対的であり、神の真理とはいえないのか、と
高等批評の文献批評学者は聖書を攻撃したのです。
しかし、こういった「事実」を絶対視する読み方というものは、聖書の読み方
としてはふさわしくないのです。聖書は、事実を正確無比に記した記録簿ではないからです。
私たちは、歴史や地学や化学の教科書を読むような読み方で聖書に接するべき
ではありません。あくまでも、聖書は、「イエスを証言するために書かれた」
(ヨハネ20・31)証言書なのです。(*)
私たちは、化学の教科書に書かれている「水」と、詩人が詩の中で用いている
「水」が同一のものではないことを知っています。
詩人が、「水が私を飲み込んだ」と表現したからといって、「水が人間を飲み
込むことがあろうか、人間が水を飲むのだ。」ということにはなりません。これ
は真理ではない、と結論することはできません。
しかし、化学者が、化学の論文において「水は酸素と水素から成り立っていな
い。」と言えばウソになります。化学において言われる「水」とは厳密な物質と
しての定義に基づくものなのです。
ことばは、それをどのような意図において用いられるかによってまったく意味
が変わってきます。その著者の意図を無視した読み方は、どのような場合におい
ても的外れなのです。
聖書は、聖書が著された目的と無関係なところで批判しても何もなりません。
神は、聖書のことばをキリストを証言するためにのみ用いておられますので、そ
れを科学の教科書として厳密な定義に基づいて記されたものと考えることはでき
ません。
また、聖書は、それを記した人間の神学や主観を土台にして書かれています。
ルカにはルカの神学があります。マタイにはマタイの神学があります。彼等がど
のようなことを、イエスの言動から主張したかったのか、その主張はそれぞれに
おいて大きく異なっているのです。同じ記事でも、文脈によって意味が異なって
います。同じ癒しの箇所が、ルカにおいては謙遜の大切さを主張する文脈の中に
記され、また、マルコにおいてはキリストの偉大さを証言する文脈の中に記され
ています。どちらも事実ではあるのですが、その事実を用いる用い方において違
いがあります。
福音書記者は、彼等の主観でイエスをキリストであると証言したのです。しか
し、神は彼等を「私の証言者である」と任命しておられるので、その証言は正し
いのです。
神は、ユダヤ人に対してイエスのメシア性を証言させるためにマタイを任命さ
れました。異邦人に対してイエスのメシア性を証言させるためにマルコを任命さ
れました。そして、聖霊は、そのような多様な見方によって、私たちに、キリス
トについて総合的な理解を得させようとしておられるのです。様々な角度からみ
ることによってキリストをより完全に理解できるように、正典は編集されたので
す。それらの間にある違いは、けっして聖書の不完全さを示すものではなく、か
えって、御言葉の十全性を証言しているのです。
神は、何から何まで自分の直接の業によっては行動されません。神は、「生身
の人間」を用いるのです。これが神の方法です。
パウロは怒りにまかせて相手をこきおろしています。「そんなに割礼が大切な
らば、根本から切り取ってしまったほうがよい。」とガラテヤにおいて述べてい
ます。
そのような生身の人間の叫びすら、神は御言葉として読めと言われているので
す。
聖書は、けっしてオカルティストが見せるような自動書記によって記された
ものではありません。
神は、人間の喜怒哀楽の中に働いておられ、むしろ、そのような人格というも
のにおいて働かれるところに神の偉大さがあるのです。
人間としてのダビデの失敗、ペテロの裏切り、トマスの不信仰、ヨハネの怒り、
こういった生臭い人間を通して、神の御心を伝えるところに聖書の偉大さ、神が
すぐれて人格的なお方であることが示されている。
もし、福音書が単なる事件記録簿でしかないならば、そして、そういう定義に
おいて評価されるものであるならば、聖書は、間違いだらけであり、信頼に足る
ものではないでしょう。そうではなく、聖書はキリストを証言し、人間に救いを
与えるために記された書物なのです。
聖書は、人間が謙遜にならない限り読むことができないように記されています。
100パーセント事実と矛盾しないことを聖書の正しさの論拠にしようとするの
は、近代の科学の前提で判断しているからです。それは、神を試験管の中に入れ
て試す行為に等しいでしょう。聖書は科学的な評価を受けるべきものではありま
せん。そういう基準を適用し、それが唯一正しい評価の基準であると主張すると
ころがすでに傲慢なのです。
「神を恐れることは知恵のはじめである。」
聖書に対する態度は、謙遜を前提としなければなりません。
神の御言葉に対する疑いから出発することは、神への愛と恐れの欠如であり、
どんなにすぐれた著作であっても、そのような疑念から書かれている書物を読む
べきではありません。
(*)現在流行の「聖書の暗号」も、この御言葉からすると、誤りだということがわかります。
聖書はイエスがメシアであることを証言するために記された書物であって、ダイアナ妃の死とかチェルノブイリ原発の事故について予告するために記されたものではありません。
「預言の私的解釈は罪である。」とペテロが述べているように、聖書を記された神の御意図を無視し、ただ世人の受けを狙ったセンセーショナリズムに走るのは、かえって聖書を安っぽくするだけではないかと思うのです。