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聖書の暗号について

 

 聖書は、統一書であって、異なるテーマについて語った複数の著者による預言書の寄せ集めではありません。

 ですから、聖書を読む際に、自分勝手な読み込みをするのではなく、真著者である神の御心がどこにあるかを考えながら読まなければならないのです。

 私たちが一般の書物や映画に接する時もこれとまったく同じことを行っています。

 小説を読む際に、私たちは、現在読んでいる部分が、その小説が述べようとしている大きな筋とどのように関連しているかを常に考えながら読みます。

 映画を見る際でも、同じです。映画の大きなテーマと無関係なシーンが繰り返し登場すると、観客は混乱してしまいます。

 

 しかし、現在流行している「聖書の暗号」は、聖書を、聖書とは無関係な様々なトピックの寄せ集めであるとしているのです。

 ある部分では、ダイアナ妃の死亡を、ある部分ではチェルノブイリの原発事故について述べているということが本当に言えるならば、それを記したのは、一人の神御自身ではないということにならないでしょうか。

 

 聖書は、はっきりと、「聖書が記された目的は『イエスがメシアであることを証言する』ことにある」と述べています(ヨハネ20・31)。

 

 イエスがメシアであるということと、ダイアナ妃やチェルノブイリやケネディ暗殺とどのような関係があるのでしょうか。

 

 イエスが全世界の王であり、万物を統治し、歴史において起こるあらゆることをコントロールされているお方である以上、まったく無関係であるということは言えませんが、しかし、聖書の中心主題と大きく離れたこれらのトピックがランダムに記述されているとするのは、「聖書が一人の神によって記された統一体である」という正統的な聖書観に真っ向から敵対する異端的な見解ではないでしょうか。

 

 聖書は、当時生きていた直接の読者が理解できないようなことを記した「暗号書」ではありません。

聖書は、常に、対象となる直接の読者に向けて、神の御心を伝えるために記された「啓示の書」なのです。