カルヴァン主義の文化的影響
ジェフリー・ジーグラー
序論
今日カルヴァン主義の文化的影響について語られることはあまりありません。
主に議論のテーマとして選ばれているのは、救済論、つまり、TULIP という略称で呼ばれるドルト信条の5条件です。
全的堕落(Total depravity)、無条件的選び(Unconditional election)、限定的贖罪(Limited atonement)、不可抗的恩恵(Irresistible grace)、聖徒の堅忍(Perseverence of the saints)の頭文字をあわせるとTULIPになります。
本稿において筆者は、カルヴァン主義の救済論的側面を無視したり、軽視するつもりはありません。ここで行おうとしているのは、西洋文明の形成に貢献した思想及び社会的勢力としてのカルヴァン主義に関する推論と観察です。
カルヴァン主義が文化に対して与えた基本的な影響を2つ取り出してみたいと思います。それは、超越者なる神の御性質と、超越神による世界支配の手段としての契約思想です。
キリスト教再建論の十分に発達した世界観・文化観と比較した場合、ジャン・カルヴァンのそれが幾分見劣りするものであることは否めない事実です。しかし、彼は大変すぐれた契約思想の持ち主でありました。このことは、申命記の注解書を読めばすぐに分かります。
彼は「人は、神の律法に対してどのように応答したかによって、祝福されもし、また、呪われもする」と述べています。
しかし、筆者が強調したいのは、カルヴァンの文化観そのものではなく、彼の名前を冠する運動が文化に対していかなる影響を与えたか、ということなのです。
論を進める前に、まず文化という言葉を定義しましょう。英語の culture という言葉は、崇拝行為を意味するラテン語の cultus または cultura に由来しています。
ここから、次のことが分かります。すなわち、ある国民の文化とそれから生まれる社会構造は、その国民が崇拝している神を反映しているのです。
コーネリアス・ヴァン・ティルは、「聖書が教える神の御旨とは、世界のあらゆる領域を、キリスト礼拝(cultus)の場と変えることである。」と述べました。これは、カルヴァン主義の文化観を最も適切に要約したものであると言うことができます。
それゆえ、キリスト教の最も成熟した形態としてのカルヴァン主義は、生活のあらゆる領域にその刻印をしるすきわめて明瞭な世界観であり、大宣教命令を効果的に成就する思想なのです。
カルヴァン主義的世界観は、統治的世界観である
カルヴァン主義の世界観は、神の超越性と、人間の契約的取り扱いを強調します。これは、多くの前提から成り立っており、次の4つのポイントにまとめることができます。
(1)超越的創造者なる神は、目に見えるものであれ、目に見えないものであれ、あらゆるものを創造された方である。神おひとりだけが、主であり、生命の根源である。生命とは、肉体的生命、知的生命、霊的生命である。換言すれば、我々の肉体も、霊魂も、感覚も、理性的能力も、すべては、神お一人によって支えられているのである。
(2)超越神は、人間に使命を与え、被造物を保持し、発達させ、支配させ給うた(創世記1・26−28)。人間は堕落し、この契約を破ったが、キリストの契約成就の御業により、選ばれた者たちにこの使命を再びお与えになった(ローマ5・17)。
(3)神は人間に、支配の命令を完遂する上で必要な力と賜物を備え給うた(申命記8・18)。神的支配の実現のために、人間には様々な資源が与えられた。
(4)神は、支配命令(dominion mandate)を確実なものとし、それを発展させるために、法と契約をお与えになった(申命記4・1−8)。神の法は、自由に制限を加え、無政府状態を防止する。また、政府の権力に対して一定の限界を設定し、専制を排除するのである。
つまり、神は我々に生命と自由を与え(自由とはあくまでも神の法の範囲内での自由です)、土地や私有財産も与えてくださったのです。
これらはすべて、我々が神の契約に従って働き、生産的活動を行うためなのです。神は、世界のあらゆる領域に御自身の主権を確立するために、このような賜物を与えてくださいました。
これこそが、カルヴァン主義が主張し、促進している神的社会秩序のヴィジョンなのです。
西洋文明への影響
カルヴァン主義思想が西洋文明に対して与えた影響はまさに驚異的なものでした。
経済において、カルヴァン主義は封建主義の崩壊を促し、様々な形態の「自由企業」や自由放任経済を生み出しました。
政治において、カルヴァン主義は、生命・自由・財産を保護することを主要な使命とする政府と、政治的・社会的理論を生み出しました。これは、オランダやスイスの歴史をかいま見れば明らかです。
すなわち、カルヴァン主義が支配した地域においては、政府の権限は制限され、抑圧的体制は排除されました。このような国家観によって、人々は安全という計り知れない恵みを享受しました。・・・
この統治形態は、後に、イギリスに登場し、アメリカにおいてさらに完成された形で実現しました。
このような条件のもとに、かつて封建社会における一つの生産要素、または、国家の僕でしかなかった家族は、自由に神に従い、神の契約を守ることができるようになりました。家族は、労働にいそしみ、生産的な生活を送り、神から与えられた支配の契約を自由に守ることができるようになったのです。
教会への影響
宗教改革時代、特にカルヴァン主義は、教会の預言者的(対決的)務めと、レビ的(指導的)務めを回復しました。
預言者の務めの典型は、ジャン・カルヴァンの最強の弟子の一人ジョン・ノックスと彼が16世紀のスコットランドに及ぼした影響です。長老主義の創始者であるノックスは、「もし避けがたい状況であるならば、クリスチャンには、邪悪で専制的な君主に対して抵抗する権利があるし、また、そうする義務がある」ということを示しました。
当時、「王権神授説」という偶像崇拝的な教説が強固に主張されていたため、王に対する抵抗は罪であると考えられていました。ノックスは、「社会は罪に対して抵抗する責任がある。それゆえ、邪悪な政治に対してもノーと言わなければならない。」と主張したのです。
ノックスは、神の主権を堅く信じていました。社会は神の律法にしたがって生活する契約的義務を負っているので、政治において悪を許容することは、社会全体が神の前に罪とされる、と述べました。
ノックスとスコットランドの長老派の闘いは、後代に大きな影響を及ぼしました。この改革の炎はアメリカ植民地入植者たちに飛び火し、彼らは、カルヴァン主義の力とバイタリティをいかんなく発揮しました。事実、これがあまりにも強烈であったために、イギリス人は、その独立運動を「長老主義者の反乱」と呼んだ程でした。
カルヴァン主義は、教会に預言者の力を付与しただけではなく、レビ的・教育的な務めも回復しました。組合主義、長老主義、ピューリタニズム、形態は様々ですが、どのカルヴァン主義の教会においても、教理と教育が強調されました。
宗教改革以前の教会において、聖職者の主な務めは儀式と聖餐式であり、教育は脇役に追いやられていました。
しかし、カルヴァン主義はこれとはまったく異質でした。例えば、植民地時代、ピューリタンのニュー・イングランドにおいて、カルヴァン主義者の牧師たちが行った説教の回数は、合計で8万回でした。1回の平均時間は、1時間半でした。70才で亡くなった教会員は、一生の間に平均して7千回の説教を聞いたことになるのです。つまり、彼らは教理中心の説教をのべ1万時間も聞いていたのです。
このように、教理の深い学びが大変強調されていました。その結果、次のような、文化を変革する力を有する考え方が生まれたのです。
(1)あらゆる事物、及び、あらゆる制度は、神の主権の下にある。
(2)世俗を含め、あらゆる生活領域は、神によって支配されている。
(3)後千年王国説的楽観論こそ正当な終末論である。「キリストは、すでに義と変えられた世界に再臨されるのだ。」という言葉がこの論を表現している。
紙面の都合上、ここでカルヴァン主義のあらゆる分野への影響を取り上げることはできません。しかし、さらにくわしい研究を志す方に刺激を与えることはできたのではないか、と考えています。
なぜ、世俗主義者やヒューマニスト、他のあらゆる国家主義・集産主義者たちはカルヴァン主義を憎んでいるのでしょうか。お分かりのように、この2つの世界観は、けっして共存することができないからです。彼らは互いに敵なのです。この世に中立の領域は存在しないのです。
最後に、偉大なるアメリカのカルヴァン主義者ジョン・ウィンスロップの有名な説教の一部をもって結論と代えさせていただきます。
我々は「丘の上の町」である。我々はこのことを心に銘記しなければならない。すべての人々の視線は、我々の上に注がれている。だから、もし我々が、自らの使命を遂行する上で、神に対して誤った態度を取るならば、我々は神の助けを受けられないのである。そして世界中で物笑いの種となるのである。・・・
愛する皆さん。今、我々の前には、生命と益、そして、死と災難が置かれている。きょう、我々は、主なる神を愛し、隣人を愛し、神の道を歩み、神のおきてを守るよう命じられている。
それは、我々が生きて、ふえ広がるためである。そして、主なる神が、我々が行って所有するあらゆる土地において我々を祝福してくださるためなのである。
しかし、もし我々の心が主から離れ、御教えに従わず、他の神々に誘惑され、それらを拝むならば・・・、我々は、その良い土地から根絶やしにされる。我々が、この広い海を渡ってやってきたこの豊かな土地から追い出されるのである。
それゆえ、我々と我々の子孫が生きるために、我々は生命を選択しようではないか。神の御声に聞き従い、神にすがりつこうではないか。神こそ、我々の生命の源であり、繁栄の泉なのだから。
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