キリスト教国の蛮行
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英語で Christian という言葉には、「基督教の」という意味と「文明人の」>
という意味があります。>
この言葉から、キリスト教を信じていたイギリス人たちは、異邦人たちを文明>
化されていない人々と見ていたと想像できます。>キリスト教以外に文明と呼ばれる世界はなかったと言うと異論もあるでしょう
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が、それでもやはり、異邦人にはそういった印象を与える何かがあったと思われ>
ます。
こういう文章といいますのは言外にキリスト教以外の地域は野蛮というニュアンスが
どうしても感じられますので、キリスト教徒以外の人からはやはり反感を買うのではな
いでしょうか。
富井様とお知り合いになれた私ですら反発を覚えてしまう文章です。
以前、富井様と文化につきましてメールを交換させていただきました時に
現代の文化は欧米が中心だということの例の一つとして富井様はハリウッド映画をあげ
られましたよね。
確かにハリウッド映画はたいへん面白いし、良いものもたくさんあります。
しかし、ここに登場するアメリカ人は暴力的であったり、自分勝手であったり、金の亡
者であったりと人間の品性という面から見るとたいへん劣っています。
映画に描かれる人物がほとんどのアメリカ人の姿であるということはもちろん言えませ
んがやはり映画にしてもあるいは文学等にしてもその時代の人間を反映しているのは疑えま
せん。
日本人はかつてはたいへん礼儀正しい人たちであると外国人から見られていました。
それは中世の日本に来たフロイトから明治に至るまで同じような印象を与えています。
しかし、今の日本人はとても暴力的で刹那的で金銭崇拝になっていますよね。
これはアメリカの影響がたいへん大きいとはお考えになられませんか。
悪貨は良貨を駆逐するという言葉がありますが、日本人はまさにアメリカ人の悪いとこ
ろが乗り移ったかのようです。
なぜキリスト教徒が主流のアメリカ人はかつての日本人のように礼儀正しく、金銭第一
主義でなく、清く正しく生きる人が過半数にならないのでしょうか。
イギリス人が世界でいちばん多くの植民地を手に入れたのは銃を手にして世界に行き、まだ銃を持たず剣で向かってくる人たちをかたっぱしから撃っていったからです。
イギリス人が自分たちを真の意味での文明人であると考えているとしたら、これはお笑
いです。 富井様は人間の価値を人間の内面的なもの、たとえば勇気であるとか情があるかですとか礼儀正しさ、努力家、まじめとか、そういうようなものだとお思いになられてはいないのですか。
しかし、そういったものは科学技術の進んだ国、経済力のある国の人により多く備わっているとはとても思えないのですが。
富井様の見方には偏見があると感じます。
AN様。メールありがとうございました。
あの掲示は、ノンクリスチャンすべてが野蛮人だというつもりで述べたのではなく、ある掲示において、キリスト教を批判するときに、まじめに議論している相手に対して、キリスト教が野蛮な宗教戦争をしていると批判する際に冒涜的なこと(マリアの性行為が正常位だったとかいう揶揄)を平気で述べるのは、かえって自分が野蛮人と思われてもしかたがないのではないか、そういった目的で述べたのです。
私は、アメリカ人とかイギリス人がすべてクリスチャンであり、また、クリスチャンの文化を完全に体現しているとは思っていません。むしろ、現在のアメリカはそれとは逆になっている。ハリウッドの映画においては平気で冒涜的な発言が出てきますし、ご指摘のような暴力的や性的なシーンが多く出ています。これは、アメリカの文化がキリスト教から離れたためであり、本来キリスト教が体現すべき様相とはかけ離れているのです。それゆえに、現在、改革の運動を進めようとしているクリスチャンが多数いるのです。
一般に、クリスチャンは、ハリウッド映画には否定的です。
それは、イギリス人の侵略行為についても言えることです。
戦後の戦争裁判において、連合軍は文明の名において日本を裁きましたが、これは明らかな偽善であって、それ以前に彼らも日本よりも酷い侵略行為を繰り返し、中国を阿片づけにし、インド人の国内産業を壊滅させ、自国の富をかきあつめるために、現地の人々を虐待していたのです。そのような侵略の様子を聞いていた日本の政府は、自国を守るために必死に富国強兵をすすめ、列強に対抗できる力を蓄えていきました。
西欧列強のアジア・アフリカ・中南米に対する植民地支配については、「全世界をキリストの弟子とせよ。」とのキリストの命令に背くようなやり方であり、まさに異人種や異文化に対する蔑視に基づく「愚民政策」でした。植民地を永久に自国に富をもたらすように利用し、彼らが独立できるようにはせず、いつまでも依存させるようにした。こういった利己的な支配というものが永続できないのは目に見えている。なぜならば、神の御心とはかけ離れていたからです。
日本は、その当時すでにできあがっていた欧米による世界支配の体制の中に割り込もうとして、自らも中国やアジア諸国に侵略し、彼らと同じことをやろうとして、先輩のチンピラたちの反発をかった。それはねたみと既得権益を侵害されたという怒りでしかないのであって、「文明の名において」なんてよくもヌケヌケと言えたものです。文明の名において裁く人間がどうして原爆なぞを落とすことができたのか。東京大空襲のやり方も、ナチスの大量虐殺にも匹敵する蛮行です。
私は、マッカーサーがよく口にした「神の名において」というのは明らかな冒涜であったと思っています。ルメイ将軍は、人々が逃げる道を塞ぐようにして周辺から順々に爆弾を落としていくやり方をベトナム戦争においても行おうとした。明らかに、アメリカは、ベトナムにおいて神の裁きを受けたと思っています。アイゼンハワーは、ベトナムに介入しようとした時に、「こんなアジア人など一たまりもなくやっつけることができる」という意味のことを語りましたが、このような人種差別的な傲慢は裁かれてしかるべきです。
アメリカは、今でも南部には根強い人種差別が残っており、教会においてさえ、黒人や黄色人種の人々が来ることをいやがる人々がいます。こういった愚行を行う者はクリスチャンという名がついていても、明らかに蛮人であって、キリスト教どころか文明の名にも値しない。
「あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、『あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。』というとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」(ヤコブ2・3−4)
大学において帝国主義論の授業を取ったことがあります。講義において、19世紀のヨーロッパの帝国主義諸国の間にくりひろげられた領土獲得合戦の様子にうんざりさせられました。二度の世界大戦もこの延長上にあるのであり、産業革命や、市民革命の遺産がこのような蛮行に至ったと見るのは不快なものですが、人間はこのように手痛い打撃を受けることなくしては、反省することができないという現実も感じた次第です。