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制度的教会中心主義の異端



 「牧師や宣教師は、制度的教会の任命がなければ、けっしてなれない」と強く主張する教会があります。これは非常に危険な思想であると言わなければなりません。なぜならば、このような人間的権威を過大に評価する教えは、新たな教皇制を生み出す恐れがあるからです。

 聖書は、血による相続を強調していますが、血による以上に信仰による相続を強調しています。家族の財産を相続する権利は子どもたちに与えられていましたが、信仰を相続しない子供に相続は拒否されました。その逆に、信仰を持つ奴隷にも相続が与えられました。

 救いは、割礼を受けたイスラエルに与えられましたが、割礼を受けただけではけっして救われませんでした。信仰によって、心に割礼を受けた者が本当のイスラエルと呼ばれました。

 このように、聖書において基本となるのは、信仰による継承なのです。ですから、教会の会員制においても、基本において、クリスチャンは目に見える教会の一員になることが基本になりますが、一時的に特殊な理由から教会のメンバーにならない場合もあります。しかし、そのような状態が普通だとは書いていません。

 また、新しく教会を作る場合に、必ずしも、他の教会から認証を受けなければならないというわけでもありません。認証を受けて他の教会から祝福を受けつつ伝道を開始するのが普通の状態と言えますが、場合によっては、独自に始める事もあるのです。もしそのような形が一切認められないならば、カトリックから のろい を宣告されたプロテスタントのすべての教会をはじめ、現存する教会のほとんどは消え去らなければなりません。そのような継承しか認めない人々は、そのようにして始められた教会を一切教会と認めてはならないのです。

 実のところ、そのように律法主義的に判断する人々の教会自身が、他の教会の認証を受けずに始まっていることがよくあるのです。また、その教会の牧師が、正規に洗礼を受けていない場合さえあります。ですから、そのような教会はまず、自分が主張している所を自分自身に当てはめなければならないのです。そうしなければ、他の人に、正当性を持つように主張することはできません。

 制度的教会は、神の意図と必ずしも一致しているとは限りません。制度的教会は神ではないのです。ですから、教会の認証が、新しい教会を作る上で必須条件であるならば、人間を神としてもよいということになります。このような頑固で硬直化した聖書理解から、人間の権威を過度に重んずる教皇制が出現するのです。

 聖書において、教会は、制度的な教会ではなく、神の国を意味しているのです。新約で教会と訳されているエクレシアという言葉は、制度的な教会を意味するのではなく、神の国全体を意味しています。ですから、政治・経済・芸術・・・・あらゆる分野を包含する神の国を新約では教会と呼んでいます。

 教会の礼拝に過度の中心性を持たせることも、このようなエクレシアの概念に反することになります。エクレシアの中心はキリストであり、制度的な礼拝ではありません。もし、そのような教会制度が、他のエクレシアの要素の上に位置すると主張するならば、その時点で、教会を国家や家庭に優先させることになり、中世に逆戻りすることになるのです。

 ローマカトリック教会は、ペテロが信仰告白した時に、イエスがこの「岩」の上に教会を建てます、と書かれている箇所を、これはペテロ個人を意味していると解釈しました。彼らは、教会の土台を人間に据えたのです。あの箇所において、イエスは、ペテロを土台とするわけではなく、ペテロが告白した信仰を土台とすると語られたのです。もし、ペテロの中心性を主張するならば、他の箇所においても、ペテロが教会の土台であると立証する箇所を挙げなければなりません。

 エクレシアは、けっして人間的な制度を土台としません。エクレシアは、イエス・キリストが神のキリストであるとの信仰を土台として成り立つのです。ですから、その信仰を守り、その信仰の上に制度的教会を建設するならば、その教会を教会として認めなければならないのです。私たちが、ある人をクリスチャンと認めるのは、その人が、イエス・キリストを信じる信仰を得ているからです。その人がどのような(イエス・キリストを告白する)教会から洗礼を受けたかは関係ありません。また、その教会がどの上部教会から認証されているかによって私たちは、その教会を正統であるかないかを判断するわけではないのです。あくまでも、私たちの判断の基準は制度ではなく、信仰です。

 教会や教会の礼拝は、自らを歴史の中心に置くことはできません。このような誤謬は、キリストをその王座から引き下ろすことであり、あの、カルケドン会議において確立された、「この地上において王権は受肉したキリスト以外にはありえない。」との教理が覆されることになります。歴史の中心は、エクレシアの発展にあります。キリストを頭とする、体なるエクレシアが、地上をどのように歩んでいくのか、そして、どのようにしてサタンのエクレシアを滅ぼしていくのか、これが歴史の主題です。

 私たちは、エクレシアの土台は、信仰であり、制度はそれに服従していると考える必要があります。そうでなければ、制度的教会も、社会も、ある一部の人間的権威によって牛耳られ、硬直化することは目に見えています。

 一部の改革主義者の集団において現れたこの異端的教理について、十分に注意を払う必要があるでしょう。






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