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聖書的教育の開発



 人間をどう見るか、ということは、様々な問題の判断において重要な条件になります。

 神は、人間と契約を結ばれました。聖書契約には、次の5つのポイントがあります。



 第1条件  主権   主権者は神である。
 第2条件  委託   主権者なる神は、人間に地球の管理を委託した。
 第3条件  規則   主権者なる神は、人間が地球を管理するための規則を与えた。
 第4条件  賞罰   その規則を守れば祝福を、破ればのろいを。
 第5条件  継承   この契約は、委託者の子孫とも結ぶ。



   人間が祝福されるか、悲惨な生活を送るかは、この規定にしたがって決定されます。

 この契約関係が理解できないと、別のパラダイムで人間の幸不幸を判断するようになってしまうので、判断が狂うのです。

 例えば、私の友人である官庁に勤めている人がいます。そこに行くと、東大閥があって、東大卒以外の者は様々な面で不利な待遇を受けます。

 そうすると、人は、東大に入ることが幸せになる条件だ、というように考えるようになります。そして、子どもに東大に入らせるように尻をはたきます。

 しかし、このような幸福の求め方をすることは、先の聖書において神が啓示された祝福とのろいの構造とは別の構造を作ることを意味していますので、偶像崇拝ということになるのです。

 「人間が幸福になるか不幸になるかは、学歴だ」というように考えることは、「主権者は神ではない。」と宣言していることに等しいのです。

 たしかに、自分の子どもに東大に入らせることによって、子どもは日本社会において様々な特権的地位を得ることになります。人は肩書きで判断する傾向にありますので、それによって、人間から様々な祝福を受けることができます。

 しかし、神は、「東大卒だから、祝福しよう」などとは、けっしてお考えになりません。神は、常に次のように言われます。「おまえは私に忠実だから、祝福しよう。」

 人間から受ける祝福は、一時的に幸福感を与えてくれます。しかし、それは、麻薬が与える刹那的幸福感であって、永続的なものではありません。

 宇宙は神が創造されたものであり、神の設定された因果律によって動いていますので、どんなに人間から受ける祝福を受けても、けっして幸せにはなりません。神に対してのろいを招くようなことをしていれば、その人は東大卒であろうが、億万長者であろうが、不幸のどん底に落ちることになります。

   今日子どもがおかしくなっているのは、日本の社会が、異なる神を設定し、その神に祝福を求めてきたからにほかなりません。

 国家の管理する教育は、聖書の契約的因果律とは異なる因果律を設定します。

 国家が好ましいと考えた人間像に近づけるように、子どもたちを訓練し、「このような人間になることがおまえの唯一の道だ。この人間になることによっておまえは幸せになれるのだ。」と子どもに言ってきたのです。

 しかし、国家の目的は、国家を強化し、産業を発達させ、国富を蓄えることにありますので、それは、必ずしもどの人間にとっても目標とはならないのです。ですから、このような狭い人間像に合わない人々は、そこから落ちこぼれるようになります。

 このようにして落ちこぼれた子どもたちは、回りの大人の偶像的世界観に照らして自分のことを考えるので、罪責感と敗北感を抱きながら育ちます。

 神は、人間をそのような目的のためには創造されていません。

 日本のように近代化の遅れた国家は、ものごとを根源から考える創造的人間よりも、てっとり早く模倣をして、それを吸収応用できる人間を求めます。工場や事務所において、すばやく計算をし、間違いのない事務処理ができる人間が産業界では要求されます。

 もちろん、そのような資質は、重要です。しかし、このような資質を獲得する目的がどこにあるか、という根元的な問題をないがしろにすると、昔のように、社会が流動的で、「あそび」の部分が多かったときには、問題にならなかったことが、社会が固定化し、「あそび」の部分がなく、人々がただ「進学」「受験」だけに集中するような余裕のない時代になると、大きな問題として浮上してくるのです。

 神は、実に様々な才能を人々に与えました。そして、それらの人々が、自分に与えられた資質を用いて、神的社会を建設することが人間の創造された目的なのです。

 もし、自分の目を、神以外の者の視座に置くならば、自分のありのままの価値を認めることができなくなりますし、自分の子どものありのままの価値を認めることができなくなります。ですから、自分の神経がまいったり、子どもがおかしくなったりします。

 もし、救いが社会や他の人からやってくると考えると、当然その救いを受けることができるように、その社会や他の人に合わせるようになります。

 救いは聖書の神しかありません。聖書の神が救ってくれるのだ、聖書の神の基準にしたがって行動すれば、自分が不利益を被ることはなく、かえって祝福されるのだ、と信じることができなければ、その人は、糸の切れた凧のように、ふらふらと宙をさまようことになります。

 「あの人がこう言った」、「そんなことは世間じゃ通用しない」こういう言葉に振り回されることになります。

 もし、信仰を中心にあらゆることを考えることができないならば、そのように考えている人と友達になることです。そして、そのように考えることができない人を避けることです。そうしないと、影響を受けます。

 もし、自分に確固とした信念がないならば、体裁とか、世間体にこだわる人と一緒にいることは非常に危険です。それは、自分を偶像崇拝に引き込むことになります。



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 今日、アメリカにおいて子どもを学校に送らずに家庭で教育するホームスクール運動が盛んです。なぜならば、学校において教えられていることが、聖書からかけ離れており、自分の子どもにとって有害であることが明らかになったからです。

 日本の学校教育においても、わが目を疑いたくなるようなことが教えられているのです。何カ月か前に新聞で、ある中学校において、ホモのカップルを招いてお話を聞くという授業が紹介されていました。

 そのお話の感想を聞くと、ある生徒は次のように答えました。

 「私は、ホモの人というのは、悪い人だと思っていましたが、今日のお話を聞いて、そうではないんだということが分かりました。」

 こういう教育をされると、生徒は善悪の判断ができなくなります。

 相対主義者になることが寛容な人間になる上で不可欠な道なのだというのが、今日の教育です。

 こんな反キリストに自分の子どもの教育を任せておいたら、子どもが信仰を継承できないのは火を見るより明らかです。

 教育とは、宗教の中でもっとも重要な部分なのです。神は、学校ではなくクリスチャンの両親に、子どもの教育を委託されました。

 神は、両親が自分で神の御言葉を教えるよう命じておられます(申命記)。そして、教育の主導権は両親が握らなければならないのです。学校にすべてを任せておくことは神が与えられた責任の放棄です。

 自分が何もかにも教えることは不可能です。物理、歴史など、専門家に任せる必要もあります。しかし、その場合でも、両親が判断して、任せることができると考えた教師に教えさせるべきです。

 実状は、聖書に立った学問を教えてくれる学校は皆無に近い。ですから、まず両親が、聖書的な価値観を子どもに教えて、あらゆることを聖書に従って考えるよう世界観をまず自分が身につける必要があるでしょう。






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