死刑反対論者は愛がない人であると聖書は述べています。
なぜならば、聖書は、故意の殺人を犯した人を処刑せよと命じているからです。
たいていの罪は、金で贖うことができましたが、故意の殺人は、何によっても償うことができませんでした。「人の血を流す者は、人によって血を流されねばならない。」(創世記9・6)
「だれでも、人を打って死なせるならば、その者は必ず殺されなければならない。」(出エジプト21・12)
「だれでも人の命を取る者は、殺されなければならない。」(レビ記24・17)
「人の血を流すならば、地は汚れる。その血を流した者の血によるのでなければ、血が流された土地は贖うことができない。」(民数記35・33)
さて、ある人は、「これは愛がない行為である」と言いますが、そうでしょうか。
これらの律法を与えた神が、このように言われます。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22・39)
そして、「律法全体・・・が、この戒めにかかっている。」とイエスは言われました。(マタイ22・40)
つまり、「殺人を犯した人を処刑せよ」を含む律法全体が、「隣人を愛せよ」との命令に要約できる、と言うのです。
このように、聖書は、「殺人者を処刑することが愛である」と述べているのです。
さて、処刑する方法は、今日のように、一般人から隠れた所で秘密に行われるのではなく、共同体全員が、処刑される人に石を投げて殺しました。
「全会衆は、その者に石を投げて殺せ。」(レビ24・14)
「あなたは、この悪事を行った男または女を町の広場に連れだし、男でも女でも、彼らを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。・・・死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、ついで、民がみな、手を下さなければならない。こうしてあなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」(申命記17・5−7)
石を投げて殺すためには、勢いをつけて投げなければなりません。軽く投げただけでは死にません。ですから、一般の人々は、処刑される人に向かって力一杯石を投げつけなければならなかったのです。(*)
それゆえ、力いっぱい処刑される者に石を投げつけることが、実は愛の行為であると言えるのです。
今日、ヒューマニズムの影響を受けたクリスチャンは、このような律法を、野蛮だとか、愛がないとか、言っています。これは、この律法をお与えになった神を野蛮だ、愛がないと言って非難していることになるのです。人間は神以上に賢くなれません。神の啓示以上に、自分の知恵を重んじることは、聖書において堅く禁じられています。
「ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。・・・彼らは万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮った」(イザヤ5・21−24)
(*) このような戒めが与えられたのは、昔の野蛮な時代だったからだ、と言う人がいます。はたしてそうでしょうか。もしそうならば、それを命令した神は、かつては野蛮な方だったということになります。
しかし、神は、けっして変わることのないお方であると聖書において宣言されています。
「主であるわたしは変わることがない。」(マラキ3・6)
絶対者である神は、けっして成長したり発展したりすることがありません。
「神には、変化も回転の陰もない。」(ヤコブ1・17)