>このようにイエスやパウロの時代では,これらの道徳的な問題はどちら
>も地球上の文明国ならどこでも犯罪となる形で,その存在をはっきり見
>せていたのである。月満ちて生れた赤ん坊を殺すのを許す国などない。
>子どもとの性行為を法的に認める国などない。イエスとパウロはこうし
>た嘆かわしい行為のことを絶対に知っていた。しかし,イエスはどちら
>についても何も言わなかったし,パウロも異性間の性行為について少し
>触れただけである。
>二人とも自分の回りの異教を報じる国ではなく,それとは別の神の国に
>注意を集中していた。この理由から,合衆国に道徳性を回復させ
>ようと,最近注ぎ込まれている膨大なエネルギーを疑問に思うのであ
>る。今日の福音派教会に対して,世間一般のもつイメージはイエスが
>実際には言及もしなかった二つの問題を強調することを特徴としてい
>る。未来の歴史家が1990年代の福音宣教を振返って,彼らは中絶と同
>性愛者の権利という道徳戦線で勇敢に戦った,と宣言しながら,同時
>に,しかし彼らは大宣教命令を成就することも,世界に恵の香を振り
>まくこともしなかったと報告したなら私達は,どんな気持ちがするだ
>ろう。
おっしゃることはよくわかります。
おおむね、意見には賛成いたします。
ただし、「中絶」「同性愛」について熱くなることが、伝道にとってプラスかマイナスか、ということと、聖書の教えを語ることの是非とはまったく別の問題です。
なぜならば、同性愛を繰り返して批判したのはパウロ自身であったし、イエスは、「わたしは律法や預言者を廃棄するためではなく、それを成就するために来た。律法の一点一画たりとも世の終わりまでけっして地に落ちることはない。」と言われ、律法は、同性愛を禁止していますから、イエスも同じようにそれを罪とみなしておられたことはあきらかです。
大宣教命令自身、「わたしがあなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい。」ということでしたから、イエスの命令である旧新約聖書の教えをあらゆる国民に教えることは間違いでもなんでもない。
問題を整理するために、わたしの意見をまとめて言いましょう。
(1)聖書の教えを伝えることは、イエスが大宣教命令で命じておられることであり、また、パウロは繰り返して自身が行っていたことであり、それ自体間違いではなくかえって良いことである。
(2)罪そのものに集中しすぎて恵みの部分を忘れることは、律法主義(律法によって救いを得ようとする教え)に陥る危険性がある。ただし、それは、律法が人に害を及ぼすからではなく(律法そのものは神の賜物であり良いものである)、人間の力(禁欲、努力など)が主要な価値となることによって、聖霊による向上が否定または忘却され、禁欲や努力が誇りとなり、人間はそれを守っていない他者を軽蔑しパリサイ主義に陥る傾向がつよいからである。
(3)人間は行いを改めることに集中することではなく、神の霊を受けることによって行いが変わると考える。再生と聖霊が主要な原動力であることを否定するものではない。
いわゆるファンダメンタリズムの一部の活動的 extremists は正統改革信仰からの逸脱です。
ラッシュドゥーニーは、中絶ピケを行っている人々を「革命主義」と呼んでいます。