>>ヒューマニズムは、人間が究極の価値判断者であると考えている。そして、
>>これを否定する教えを断固として拒否する。ヒューマニズムの国家の大前提
>>は、人間だけが意思決定者であって、超越者の意思を適用してはならない、
>>とするものである。
>>
>>もし、ヒューマニズムの国家の内部において超越者の法を究極と宣言すれ
>>ば、猛烈な反発が起こるだろう。
>>人間はその王座から降りることを拒否するのである。
>富井さんの「ヒューマニズム」という定義はどこかゆがんでいると思
>うのですが。「価値判断の尺度」としての「人間」という考え方を認
>めることはできても、「価値の究極的な判断者としての人間」という
>考え方は、西洋ヒューマニズムがキリスト教の絶対的な価値判断の体
>系に対するアンチテーゼとあいて起こった初期のヒューマニズムの考
>え方であって、現代ヒューマニズムとは一線を画するべきではないか
>と考えるのですが。
西欧ヒューマニズムは、カントを境に時代をへるにつれてますます「人間が究極の価値判断」であるとの意見を純粋化していきます。デカルトは神を証明しようとしたが、ニーチェは否定した。カントは宗教を認識不能の領域として独自の場を与えたが、マルクスはアヘンと切り捨てた。
それから、初期の西欧的ヒューマニズムは、たしかに「キリスト教」という絶対的価値判断体系思想に反発して起きたという側面はありますが、正確に言えば、スコラ主義の非人間性に反発したというほうがよいでしょう。
スコラ主義と改革主義を混同すると、キリスト教全体が人間を否定していたという誤解のもとになります。
スコラはギリシャ的な枠組みを用いてキリスト教を再解釈し、肉体を軽視し、食欲、性欲、世俗の仕事は野卑なものと考えていたが、カルヴァンは、職業はすべて神からの召し(vocation)であると述べ、肉体の欲望を肯定した。蓄財、金融など中世において卑属とされていたものを肯定し、しかも、それらを単なる個人の金銭欲からではなく、神の栄光を求める世俗内的禁欲から行ったことが近代資本主義の発生を可能にしたというのがスタンダードな理解でしょう。
それから、ちなみに、西洋近代哲学は、単なる西洋人の思考形式というだけではなく、あくまでも西洋が世界の学問・政治・経済を支配する過程において、グローバル化されたと考えるべきでしょう。もちろん、東洋の独特な思考を区別するべきだとも思いますが、東洋はそもそもテーゼとアンチテーゼという対立的思考法を厳密にはいたしません。そしてそれが普遍的な価値をもつものであるかということには大きな疑問があるわけです。例えば数学や物理学などはこういった思考法をもとにしては成立できませんから。
>姦淫の定義を教えてください。
姦淫とは、性欲を満たす目的での肉体的接触だけではなく、「貪欲」つまり、心の中において配偶者ではない異性、または同性を性欲の対象として見る、欲しがることがふくまれている。
これは、マタイ5・27−29において原則が提示されています。
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのである。」
旧約聖書においては、姦淫の定義は、隣人の妻(または夫)との肉体関係、未婚者・婚約者・同性者・動物との性交、服装倒錯などにありますが、新約聖書においてイエスは、心の中の姦淫をはっきりと示した(もちろん、旧約聖書においても、第十戒は「隣人のものを欲しがるな。」という心の問題を扱っていますから、心における性的貪欲状態が罪としてみなされていたことは変わりはないのですが)。それゆえ、心の中においてこれらのものを見て、彼らを性欲の対象として欲することも姦淫と定義される。