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創造の証拠



聖書は、創造が真か偽か、という問いかけをしていません。

創造は、神が存在するのと同じように、キリスト教の前提です。

前提である以上、彼らから見れば、信仰であって、それは、証明になっていない。と言われるでしょう。しかし、それでよいと思います。

死人がよみがえっても、誰が目の前で天に昇っていっても、不信仰な人は絶対に神を知ることも、神の知恵を理解することもできないと、イエス様は述べています。

ですから、彼らと論争するのは誤りであると考えています。(ある程度、論争もしてみましたが、前提が違う人と論争しても仕方がないので、私は、信仰を得たい、または、信仰をすでに得ている人の励ましをしたいと思って、掲示しています。他の人の掲示されているものは読みません。メールで来たものについては、吟味した上で回答しています。)

歴史上、ある人々は、不信仰な人々と、論争することができると考えて、神の証明を試みましたが、それは、こちらが相手に妥協していることになると思います。

聖書の神は、「神を恐れることは知識の初めである。」と言われます。まず、知識を獲得するには、神を信じることが前提であると。

ですから、もし私たちが、彼らの土俵に入って、神を証明しましょうとか、創造を証明しましょうと言っても、そのようにして証明した神は神ではないのです。

神は、「私は、謙遜になって、信仰のある者にだけ、知ることができる。」と述べておられるので、謙遜でもなく、信仰ももとうと思っていない傲慢な人は、永遠に神を知ることはできません。

そのような努力は、実を結ばないと思います。

ただ、彼らに述べることができるとすれば、世界を見ることによって、神の存在は明らかであるということだけです(ローマ1章)。

信仰者に対しては、次のように言うことができると思います。

私たちの体は、きわめて合目的的にできている。もし創造者がいなければ、このような人間の体が存在することはおかしい。

例えば、耳の中にある3つの耳小骨は、音を伝達するために存在します。そして伝えられた音は、神経を通って脳に伝えられます。

このような極めて複雑な機能がひとりでに出来たということは絶対に不可能です。

たとえ、耳小骨の1つが偶然できても無意味なのです。三つ同時にそろわなければ意味がありません。そして、神経とその信号を理解する感覚中枢がその時点で、できていなければこれも無意味です。

では、耳小骨の1つが進化によって出来た段階で、どうして残りの2つの骨が登場することを期待できるのか。

例えば、ビルの階段で、下の3分の1が出来たとします。しかし、その上の3分の2が出来ることをどうして期待できますか。だれも階段を完成させようなんて考えている人は、いないのに。そのような階段は、永遠にそこで止まっているでしょう。いや、1億年も立てば、全部壊れて砂になっていることでしょう。

それとも、1億年そこで観察できる人がいたとして、そこでだまって階段のゆくえを見ている人がいるとします。すると、ひとりでに、鉄骨がどこからかやってきて2階にかかって、ひとりでにコンクリートが流れ込んで、ひとりでに手すりがにょきにょきと生えて、ひとりでに、人間の歩きやすいような等間隔のステップができると期待できるでしょうか。

ビルの階段を完成させて、人が2階に上ることができるようにしようという意思をもった人格的存在がいれば、期待できます。しかし、完成をさせようという計画もなく、その仕事を実行しようという存在がいなければ、絶対に階段は完成しません。

それと同じように、耳小骨の1つができたとしても、後の2つができるなどということは絶対に期待できません。

音を聞こえるようにするという目的と計画があらかじめ存在していたからこそ、この音を聞くための機能はすべて整っているのです。

創造論を否定する人々は、ある合目的的にできているものを見ても、計画者が存在しないと考えることができる非常に類稀な信仰をもった人々なのです。

人間の体は、小宇宙とも言えるほど、緻密で、目的に満ちたものです。

人間の造ったビルやコンピューターなどとは比較になりません。

光合成において重要な役割を演じるカルビン回路というものがあります。この回路の化学式の変化を書くと、新聞紙1面いっぱいになるといいます。これがあの1枚の葉の中において起こっているのです。

これらは一つの化学工場です。さて、創造論を否定する人々以外で、だれが、化学工場を見て、これは、無目的にひとりでに偶然に出来たのだと言う人がいるでしょうか。

もし、自分の会社の人々と化学工場に見学に言って、上司に対して、「これはひとりでに偶然に出来たんですね。」と言ったら、まず、病院に送られます。そして、もはや家族を養っていくことはできなくなるでしょう。

証拠はこれだけではありません。無数に存在します。

科学的な知識の乏しい時代にあった人々に対して、神は「神の存在は、被造物においてはっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はない。」と言われたのですから、今日のように、科学が発達して、創造の神秘がますますはっきりと現されているのに、神を否定し、神の創造を否定するならば、その人の責任はますます大きくなっています。

責任が大きいということは、つまり、裁きも格段に厳しいものになるということです。

「あなどらない人々は幸いである。」と神はダビデを通して言われました(詩篇1篇)。

つまり、明白な真理を見ても、それを受け入れようとせず、それを鼻で笑うようなものは、「風が吹き飛ばす籾殻のように」なります。そして、それらは集められて、火にくべられます。




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