進化論を放置すると社会は崩壊する
進化論は、自然法を否定します。
19世紀まで宇宙の創造者・法制定者(聖書の神であるかないかにかかわらず)が存在するとか、宇宙には普遍的な法があるという考え方が世界を支配していました。 日本でも「おてんとう様が見ている」とか「バチがあたる」というように、人間を越えた法が存在するという考え方がありました。仏教でも儒教でもそのようなHigher Lawの考え方というものはあります。
しかし、進化論のように、世界が偶然に誕生して、歴史が偶然に推移し、その歴史を動かしているのは、自然法とかHigher Lawなどではなく、「適者・力の強い者が生き残り、不適者・力の弱い者が滅びる」という優勝劣敗の原理であるということを主張するならば、そういった法は「原理的に」滅びます。
「原理的に」と言ったのは、「実際に」人々が生活の中において優勝劣敗の原理を実行するとは限らないからです。
思想が実を結ぶのには時間がかかります。進化論の原理が人々の実際の生活を支配するのには、時間がかかるでしょう。
そのため、あまり進化論の世界観を危惧している人はいません。
しかし、実際に今世紀のはじめ頃から、法律や社会のあらゆる部分に進化論の世界観が適用されるようになり、欧米社会は変質してきました。欧米の影響を直に受ける日本や他の地域も当然変質しつつあります。進化論の社会的影響はまことに甚大です。
では、これから先、進化論の原理を忠実に体現するような社会になればどのようになるのか。
旧来の自然法的世界観が残っている世代が過ぎ去って、進化論だけしか教えられなかった人々によって構成された社会がやってきます。一体そのような社会がどのようなものになるのか、という問題がこれからクローズアップされてくると思うのです。
「おてんとう様なんて関係ない。人間は動物から進化してできたものであって、人に迷惑をかけなければ援助交際でも何でもやってもいい。」という若者を非難することは進化論者は原理的にできません。心情的に、そんなことをしてはいけない、と言えるでしょうが、原理的には不可能です。
原理的に不可能であるということは、決定的な弱さを持っているということであり、時間が経てば、そのような滅茶苦茶な人種が巷にあふれるようになる。
アメリカにおいて公教育の中からキリスト教倫理が完全に排除された時と、青少年非行の急激な増加の開始時期はぴったり一致します。(http://www.millnm.net/qanda/beast.html)
日本は、自分の親の時代に教育勅語など儒教の影響がまだ残っており、人がやってよいことと悪いことの区別というものがきちんと教えられていましたが、戦後の教育は道徳教育を批判し、進化論が教えられました。
教育勅語は全体主義の国家の利益とか家制度の利益が背景にあるので、それを復活させることには反対ですが、しかし、何らかの超越法がなければ社会は崩壊すると考えています。
国家の教育が破たんし、旧来の宗教が勢いを失い、進化論の唯物史観しか教えられなかった日本の社会には、オヤジ狩り、痴漢警察官、淫行教師、汚職が溢れています。