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進化論と相対主義

 

 

 進化論は、ひとつの内在論である。

 つまり、超越を否定して世界を完全に内在的に解釈しようとの試みなわけだ。

 

 自然を越えた存在が、自然の原因ではない。自然を越えた存在が自然を動かし

ているのでもない。

 

 自然の営みは、もっぱら内在的な原因によるものであって、超越者の意図など

ない。すべては、偶然に推移している、とするものだ。

 

 さて、進化論者はこれゆえに「計画」に価値を置くことはできない。

 「計画」は、彼が証明しようとしているところの「偶然が究極的に支配する世

界」においては、まったくの「異物」であり「逸脱」である。

 

 よしんば価値を持つとしても、それは、人間の僭越な野望でしかない。彼が前

提としている世界の中において、「計画」は、自分の生き残りのための方便であ

る。

 

 それゆえ、「計画」を立てて、それを実行しようとする者は、みずからその試

みの正当性を証明できないのであるから、それを完遂するまでの間、彼が頼る唯

一の拠り所は「むきだしの力」である。

 

 偶然が究極である世界は、あらゆる「計画」や「意志」をも「異物」として排

除しようとするが、排除されないために彼は自分の腕力にのみ頼る。

 

 それゆえ、進化論者にとって、「純粋な力」こそ「倫理」なのである。

 

 「純粋な力」を持つものは「純粋な力」を持たない者をねじふせ、「純粋な力」

を持たないものは「純粋な力」を持つ者に屈服する。

 

 進化論者にとって「倫理」とは超越的概念ではなく、100パーセント内在的

な概念なのであるから、強者が弱者を支配することを100パーセント受容しな

ければならない。彼は、1パーセントでも、超越的な倫理を持ち出してはならな

い。あたかも、自然を越えた倫理が存在するかのような言葉はおくびにも出して

はならない。

 

 腕力のまさった中学生が、知恵遅れの小学生の首を絞めて、それを切り落とし、

校門に飾ることは、彼の生き残りに寄与する方便であるから、それを100パー

セント受容しなければならない。このような行動は、社会全体の安全に悪影響を

及ぼし、社会の生存にとって有害であるから禁止されるというのであれば、それ

は、力の強い日本の社会が生存するために、力の弱い中学生に対して押しつけた

「恣意」であって、けっして「道徳」とか「善悪」を口に出してはならない。

 

 彼が少年院送りになったのは、強者である社会の計画が実現するために、弱者

である中学生の計画を頓挫させたということだけである。それ以上でもそれ以下

でもない。