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進化論問題

 


たとえば、「地球の歴史」は、現代の科学では数十億年であるとされてい

>ますが、聖書を字義通りに読めばたしか6000年でしかありません。

>で、現在でてきている「様々な証拠」は「地球が誕生してから6000年」で

>あるという「解釈」は不可能です。

>もちろん、数万年前の「人類の化石」は「聖書をもとにした解釈」では解

>釈不能です。

 

 ん〜。何度もここにおいて掲示したことをまた書かねばならないというのも辛

いのですが、聖書が提示する地球の歴史は6000年であるという貴兄のご意見

にはすでに反論をさせていただきました。お忘れですか?

 聖書に基づいて地球の年齢を決定する誤りは、次の点にあります。

 

 (1)まず、聖書の系図にはスキップが多いので系図の年齢を合算してもアダ

ムがいつ生きていたかということを特定できない。同一の系図なのに、編者の意

図によって多数の人物が省略されているものがある。マタイの1章の系図は区切

りのよい14代で分割されているが、それは、正確には14代ではない。ユダヤ

人は系図を暗記するために切れのよいようにまとめることを普通に行っていたし、

また、系図の目的ということを考えても、救済主の来臨の過程をあきらかにする

ことが主題で、世代数の正確さは年代記におけるそれのように期待することはで

きない。

 

(2)そもそも、聖書は歴史書として書かれた書物ではないので、その意図で読

み込みを行うことはできない。聖書に、歴史書としての厳密さ、現代科学の厳密

さを期待することは間違いである。あくまでも聖書は神と人間との契約(創造→

契約授与→契約違犯→違犯の赦免→契約遵守→被造世界の完成)について書かれ

ている書物である。著者の意図がまったく読み手のそれと異なるものを、読者が

勝手に読み込むことは一般の書物においてもできない。例えば、詩人の詩の中で

「水がわたしを飲み込んだ。」という箇所があって、それを「水が人間をのみこ

むことがあるだろうか。人間が水を飲むのだ。」と言ったらオカシイ読み方とい

うことになる。その書物がどのような意図で書かれているかということを無視し

ては正しく解釈をすることはできない。水という言葉一つにしても、化学書にお

ける水と詩における水とはまったく異なる意味を持つ。

 

 

>現代のDNA分析など、進化論が提起された時代では考えられなかったよ

>うな「科学的分析手法」が開発され、それらの「手法」でも、「種が変化

>する」という「解釈」の妥当性は証明されていますが、残念ながら「聖書

>による解釈」の妥当性は否定されています。

>「ある解釈(仮説)」が妥当であることを裏付ける事象を「証拠」と呼び

>ます。

>そういう意味で、「創造論」を証明する「証拠」をひとつでも良いから、

>富井氏に提出していただけるとありがたいのですが、私の貧弱な記憶には

>ありません。

>結局、富井氏の「反進化論」は、たとえば「邪馬台国九州説」のいろいろ

>ある説のひとつを批判することで「邪馬台国はなかった」と言っているよ

>うなものです。

 

 いろんなことをまとめて仰るので少し整理が必要です。

 ここで貴兄は次の3つのことを述べておられます。

 

 (1)進化論には証拠がある。

 (2)創造論には証拠がない。

 (3)富井の進化論批判は、あまたある進化論の仮説の一つを否定しているに

すぎなく、進化論全体の批判ではない。

 

 (1)については、わたしは、すでに胃下垂や胎児の変化、尻尾が進化の証拠

ならば、それは証拠になっていないと言いました。そこで、貴兄は新たな証拠を

出された。すなわち、DNA分析によって種の変化は証明されたと。それでは、

具体的に、種が変化したならば、その中間種はどこにあるのでしょうか。種が変

化する可能性を示唆するだけでは「変化の事実」を証明したことにはなりません

から。

 進化が具体的にどのように起こったのか、その変遷を「証明」する証拠(「解

釈」のためのツールではないですぞ)を挙げていただけますか?もしそれがきち

んと示すことができるならば、変化があったということを証明できますが。(*)

 

 

(*)でも日高敏隆氏によれば、中間種の化石は見つかっていないそうですね。

それに、だいたい、進化を証明することは非常にむずかしいことだと思う。なぜ

ならば、変化の跡を見せることは変化があったことを必ずしも示しているわけで

はないから。小さな恐竜と大きな恐竜を出しても、必ずしも小さいものから大き

なものに進化したと結論はできない。「神が小さな恐竜と大きな恐竜を創造され

た。」と言われてしまいますからね。

 

 (2)については、愕然とさせられます。掲示の内容を読んでいないんですか?

創造論を科学的に証明しようなんてことを私がやったことが一度でもありますか?

私は創造論はドグマであると再三申し上げてるのです。

 

 (3)こういうことで自説を護れるならば、弁証は楽な稼業です。「あなたが

否定したのは、われわれの説の一部でしかない。全体を否定したと思うな。」自

分が議論につまったら、「実はこれは進化論の一部なんですよ。まだまだ奥が深

いですからね。勝ったと思わないでよ。」と言えばいいんですからね。

 

>》(*)さて、ここでいつものように、「じゃあ、創造論者の説も『解釈

>》』ではないんかい?」と言われそうなので、つけ加えておく。

>だから、私には「創造論」は「解釈」であると考えていません。

>それを否定する「事象」があるにもかかわらず、それを無視して「しがみ

>つく解釈」は「信仰」でしかありません。

 

 だから、わたしが述べているのは「信仰」だと再三いっているでしょう?

 

>「事実を説明できない解釈」は「妄想」であり「迷信」であると考えます。

 

 創造論はきわめて事実をうまく解釈できるんですね。

 むしろ、進化論のほうが解釈につまっているんじゃないですか?

 中間種がどうして見つからないのか、DNAに人間を発生させる情報が含まれ

ているが、どのようにして人格的超越者なしに、そういった塩基の連鎖が合目的

的に配列されたのか。すでに何度も述べたように、4種類の塩基が30億連なっ

てできているDNAはどのようにして偶然に並んだのですか?4の30億乗回の

試行錯誤がなければ成り立たないような精緻なシステムがどうやって数十億年の

短期間の中で「偶然に」できあがったのか。

 こういう事実を説明できない解釈こそが本物の「妄想」なのでしょう。

 

>「それまでの理論では解釈できない事実」がでてきたときに、その理論を

>「捨て去り」、かつ「その新事実をも包含する理論」を考え出すのが、

>「科学」だと考えています。

>もちろん、「科学」でも、その時点では「信じている」わけです。

>「信仰」との違いは、「信じていたことと事実が異なったとき、事実を優

>先」する事だと思います。

>だから「理論」は常に「検証」されなければならないし、「ドグマ」と

>してとらえないのが前提です。

>したがって、

>》 キリスト教は、創造をドグマとしてとらえているので、それを証明す

>》ることをしない。それは前提−−つまり信仰−−である。

>という立場で、いくら「反進化論」を唱えても、それは「科学的反論」

>にはならないし、それを富井氏自らが認めているのでしたら、それは

>「論争放棄」です。

 

 またまた「ん〜」ですね。

 どうなってんでしょうか。読んでますか?相手の文章。

 

 「キリスト教は創造をドグマとしてとらえている」→「キリスト教は進化論を

科学的に否定できない。」という論理は成立しないということはすでに掲示しま

した。

 

 議論の資格がない者とは、議論のルールを破る者であって、異なる前提に立つ

かどうかは全く問題ではない。異なる前提に立つ者であっても、論敵の前提に立っ

て、その論理の内部矛盾をつけば相手の説を否定することができる。

 

 例えば、ある特定の宗教を信じている人間は、1+1=3である、という説を

批判できないとは言えない。オウムの信者であるから、彼の、数学に関する学説

は否定される、とは(バイアスに汚染されていない限り)言われない。彼の学説

が否定されるのは、純粋にその論文に矛盾や事実との不一致がある場合だけです。

 

 

★ 次のまとめの文章を<よ〜く>読んでくださいね。これ以上、同じことをく

り返したくないので・・・

 

 クリスチャンは、創造があったことに疑いを持たない。なぜならば、それは神

の宣言だから。このように創造を「信仰した」クリスチャンであるが、だからと

いって、進化論を否定する資格をまったく失ったわけではない。もちろん、「創

造が正しい」→「進化はまちがいだ」という批判は異なる前提に立つ相手には通

用しない。なぜならば、相手は創造が正しいとは思っていないから。相手を否定

するには、まず相手の前提「進化は正しい」に立つことだ。進化を前提としつつ、

進化と矛盾する様々な事実を提示することによって進化を否定することができる。

 

 例えば「あなたは進化論者であり、超越者の創造がなかったという前提に立っ

ているわけですが、もしあなたのこの前提が正しいならば、中間種の化石や実物

がなぜ存在しないのでしょうか。おかしくありませんか。」

 

 このような批判は、だれもが行えるのである。仏教徒であろうと、クリスチャ

ンであろうと、イスラム教徒であろうと、どのような前提に立っている人間であ

ろうと、行えるのである。なぜならば、ここにおいて彼等はけっして自分の前提

を持ち出しているわけではないから。

 もし、イスラム教徒が、「アラーの教えから言うと、進化はなかった。だから

あなたは間違っている。」と言えば、それは単なる宣言であって、議論放棄であ

る。これは、宣教の手法としては認められても、議論の手法ではない。

 

 わたしは、これまで「聖書は進化はないと言っている。だから進化論は間違い

だ」と言ったことがありますか?

 区別をお願いします。