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イエスの顔



 よく、「イエスの顔が西洋人の顔に描かれているが、日本人はイエスを日本人として描いてよいのだ。黒人は、イエスを黒人として描いてよいのだ。」と言われます。

 しかし、イエスの顔は、ユダヤ人の顔なのです。これ以外のいかなるものでもありません。

 十戒の第二戒の「自分のために像を刻んではならない。」との戒めは、自分の好みに合わせて神を変えてはならない、との戒めなのです。

 ですから、教会において、メッセージが、人受けのするいわゆる「優しいイエス様」を描くならば、その教会は、どんなに人が集まっても、偶像崇拝の教会なのです。

 パウロは、自分のことを「神の奥義の管理者」(1コリント4・1)だと言いました。

   管理者とはどのような人でしょうか。

 マンションの管理者は、マンションのオーナーから管理の仕事を依頼されています。ですから、管理者は、自分勝手に建て増しをしたり、壁の色を変えたりしてはならないのです。

 同じように、クリスチャンも、神の奥義に勝手に何かをつけ加えたり、そこから取り去ってはならないのです。

 パウロは、エペソの教会の人々に次のように言いました。

 「私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20・26−27)

 福音の伝道者は、何人の教会を作ったかによって裁かれるのではなく、神の御言葉をまっすぐに、神の計画の全体を余すところなく伝えたかどうか、ということによって裁かれるのです。

 今日の教会学校や伝道における紙芝居、絵本、映画の類の問題は、偶像を刻むことにあります。神は、絵画によってではなく、文字によって御自身を啓示されたのです。

   クリスマスに、よく紙芝居で「三人の博士」が出てきますが、博士が「三人」であったと記している聖書の箇所はありません。

 このような聖書以外のものを聖書の教えであると述べて、それを伝道に役立てていくというところに、偶像崇拝の心があるのです。

 結局、そのようなクリスチャンは、自分の想像した神を拝んでいるに過ぎません。それは、神ではないのです。ですから、その礼拝者はクリスチャンでもないのです。




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