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イエスの顔2



−イエスの顔がユダヤ人の顔だということについて−

 イエスは、ユダヤ人の家庭に生まれました。マリアはユダヤ人ですし、ヨセフもユダヤ人です。

 もちろん、イエスは処女降誕によって生まれましたから、マリアやヨセフの遺伝子をもらっているわけではありません(*)。しかし、当時の人が、イエスをただの大工のせがれではないか、と述べたところから推察すると、イエスの外貌は、普通のイスラエル人と変わらないものであったことが見て取れます。

 キャンパスクルセードの『ジーザス』という映画において、俳優はイエスを除いてすべてユダヤ人を起用していますが、イエスだけは、イギリス人なのです。それも、目が青い人を使っているのです。

 その他にも、イエスが金髪碧眼として描かれている映画があります。

 このようなイエス像というものは、欧米人にとっての理想の姿がイエスに投影された、ひとつの偶像として機能しています。イエスは、ギリシャ的真善美の理想ではないのです。(**)

 『ベンハー』において、イエスは後ろ姿しか映っていませんでした。

 これはまだ評価できるでしょう。

 しかし、カトリックが未開のゲルマン人への伝道の方便としてマリア崇拝や偶像を用いたことによって、異教の風習がキリスト教の中に入ったように、今日、伝道のため、教育のためと称して、紙芝居や映画などによって、イエス像が登場し、聖書が絵物語によって伝えられることによって、異教的な要素が教会の中に侵入しているのです。

 なぜならば、人が文字で表されていたものを絵や像として表現するときに、そこには自分の好みが投影されるからです。イエスを金髪に描いたり、目を青くしたりすることによって、西洋人は自分達にとって親近感の持てるキリスト像を描きます。また、アジア人は、アジア人に似た姿に描くことによって親近感を持つかもしれません。そうすることによって、人は自分の心を満足させますが、それは偽りの満足です。(***)

 例えば、イエスは、律法を守られたのですから、びんの毛を長く伸ばしていたはずです(レビ19・27)。また、男子は髪を長くすることは恥ずべき事であると考えられていましたので(1コリ11章)、イエスも短髪であった可能性が高いのです。

 イエスは、よく絵画などで文学青年のようにやせこけた姿で描かれていますが、大工の息子として、力仕事をしていたわけですから、きゃしゃではなかったはずです。

 また、イエスの着物の四隅には青いふさが付けられていました(申命記22・12)。

 額には律法を記した記章が置かれ、手には律法を書いたものが結びつけられていたはずです(申命記6・8)。

 イエスの家の門柱と門には律法が記されていました(申命記6・9)。

 私たちが、聖書を読むことによって正しいイエス観を持たないと、カトリックの祭壇に奉られているイエスの十字架像や、レンブラントの絵や、ラファエロの聖母子像などから、誤ったイメージを持ってしまうのです。

 イエスは、神の律法を完全に守りぬいたユダヤ人でした。そのような遵法的ユダヤ人としてイエスを認識することがなければ、私たちは、偶像を崇拝しているということになります。

 このように神のイメージを自分の都合に合わせて作り替えることが第二戒「自分のために偶像を作ってはならない。・・・どんな形をも作ってはならない。」において堅く禁じられているのです。

 神が人に啓示された方法は、あくまでも文字です。文章を通じてしか神は人に真理を伝えておられないのです。そして、子どもの教育や、成人教育において、この文字による真理伝達の方法を固守することが今日強く求められているのです。

 神は、聖書全体を通じて御自身を啓示しておられます。これは、ただ新約聖書だけとか、旧約聖書だけとか、福音書だけでわかるお方ではありません。聖書全体を総合的に、かつ、細部までくわしく読むことによってしか、神を正しく理解することはできません。

 ですから、偏った説教によっても、偶像は形作られます。イエスを旧約聖書と新約聖書全体から過不足なく描き出すことがなければ、それは偶像になります。

 偶像は仏教の寺院にあるのではなく、神社の境内にあるのでもない。

 漫画や映画、絵本、クリスマス絵画、そして牧師の説教の中にあるのです。



        *    *    *



−日本人の形式主義について−

 キリスト教は、時間がたつにつれて、本当の聖書の教えから離れて、日本的習慣となります。そして、形だけが優先され、内容がなくなるのです。クリスチャンは、いつのまにか、いわゆる「教会生活」という型をこなすために日曜日に集まります。

 こういった形式化こそ、日本人の特質なのです。いったん型が決まれば、それがもともと何を意味していたのかはどうでもよくなる。人々は、その型を守ることに血道をあげます。そして、その型を守らない人を異端者と決めつけます。

 「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」と言ったイエスの警告は日本人にも当てはまるのです。

 本質を見失ったキリスト教には、いのちがなくなります。だから教会から活気が失われ、献身する者も現れない。



  (*)神は、聖霊が直接創造された胚を、マリアの子宮に着床させたのです。もしマリアの遺伝子やヨセフの遺伝子が、その胚の中に入っていたら、人類の原罪を受け継ぐことになります。

(**)西洋の歴史の中で、一貫して誤ってきたのは、キリスト教をギリシャ的な枠組みの中に押し込めてしまう点でした。キリスト教のギリシャ化の流れは、初代教会から今日に至るまで続いています。

(***)仏教をはじめ様々な外来文化を土着化させることによって、日本人は独自の文化を形成しました。しかし、キリスト教は、土着化の対象にはなりません。土着化してはならないのです。キリスト教は、文化の中に入るのではなくて、文化を変えなければならないのです。

 仏の顔を東洋人の顔に変えてしまったごとく、イエスの顔を日本人に似せて作り替えることは許されません。イエスは、聖書に記されたままの姿でよいのです。




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