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現代人の妄想

 

 ディベートにおいてよく見かける現代人の妄想についてのコメント:

 

【妄想その1】 この世に科学的検証が及ばないことはない。

 

これは敢えて説明しなくとも明白だとは思うが、キリストの処女降誕などを頭ごなしに否定する人が後を絶たないので、説明しておきます。次に挙げる例から見ても、科学では検証不可能なことはこの世に無数に存在する。いや、この世に存在するもので、科学によって原理的に説明できることのほうがまれでしょう。

 

 一番単純な例:13億光年離れたところにあるホニョホニョ星の北緯35度東経88度(何を基準に経を決めるか問題だが)の352km地下にある岩石の組成を調べる手だてはまるでない。

 

 ちょっと単純な例:今、手放そうとしているコップが下に落ちることを、「経験的アナロジーによらずに」ただ純粋に科学的認識だけに頼って予測することはできない。

 

 説明:「自分がこれまで得た経験によれば、きっと下に落ちるはずだ」ということは厳密さを要求する科学においては御法度である。今まで経験上そうだったということは、これからもそうであることの保証にはならない。

 

 「科学的法則によれば、物体は下に落ちることになっている」というのも同じである。次の瞬間に、科学的法則が「実際に」働くかどうかということを100パーセントの確かさをもって予測することは不可能である。なぜならば、「いつでもどこでもどのような場合でも同じ法則が通用する」かどうかは誰も保証できないからである。「いつでもどこでもどのような場合でも同じ法則が通用される」ということは、信仰であって、真理ではない。有限な人間にとって、それを証明するすべはない。2000年前にキリストが処女降誕をしたかどうか、ということを科学で検証することは不可能である。有限知しかない人間には、あらゆる場合、あらゆる場所、あらゆる時間に適用できる法則があることを証明できない。ある科学的法則が普遍的に通用するとするのは斉一説なる前提(信仰)によるのであって、事実とは区別しなければならない。

 

 

おまけ:

 

 不確定性原理云々と言いながら、あたかも科学的認識に限界がないかのように発言する風潮は困ったものです。

 

 

 

【妄想その2】 俺は、開かれた系の中にいる。宗教家のような循環論者ではないゾ〜。

 

 トマス・クーンは、現代科学はけっして開かれた系にあるのではなく、各学界特有のパラダイムがあって、何らかのパラダイムの枠内でしか人間は思考できないと述べています。新しいパラダイムが古いパラダイムに入れ替わることがあっても、「パラダイム無し」ということはない。科学において、絶対中立なる土台は不可能であるということは、マトモナ科学者ならだれもが認めているはずだ。

 

 無頭派ヒューマニストが、キリスト教因果律をカルト呼ばわりし、検証不可能な教義(人間の生きる目的・罪の現実性など)について判断を下すときに、彼は立派な宗教家、つまり循環論者になったのである。彼には、独特な善悪・価値の判断基準が存在する。そして、その判断基準の正当性を絶対中立な立場から証明することはできない。

 

 

【妄想3】 異なる前提の上に築き上げられた体系を批判することは絶対にできない、というのはキリスト教の逃げ口上である

 

 キリスト教は「実在する神の絶対主権」という、ヒューマニズムとは異なる前提を立てている。

 

 だからといって、それなるがゆえに、「キリスト教は他の体系からの批判を一切受け付けられない」とは主張していない。

 

 浅薄な思考者は、「異なる前提を立てる」→「他の体系からの批判を盲目的に拒絶する都合のよい立場」と結論する。

 

 異なる前提を立てた体系を攻撃するには、その体系の中にいったん入る以外ない。そしてその前提に立った上で、相手の内部矛盾をつく。これは、ディベートのイロハである。

 

 例えば、「キリストは処女から生まれた」ことを否定したいなら、「科学の法則では、男女の性行為によらずに子供が産まれることは一切存在しない。」と言ってはだめだ。なぜならば、キリスト教は、科学の法則がいつでもどこでもどのような場合でも作用するとする「信仰」を否定するからである。

 

 キリストが処女から生まれたことが、キリスト教の教義体系において矛盾を引き起こすことになることを示さなければ、攻撃にはならない。

 

 もっと単純な例を挙げよう。予定説を否定したいなら、「神が救いを一方的に予定しているなんて酷い」とか「予定なんてあるはずがない。」といくら叫んでも、それは、その批判者の主観であって、こちらにとっては痛くも痒くもない。

 

 こちらをギャフンと言わせたいなら、救いが神の側において予定されているとすれば、「神はすべての人が救われることを望んでおられる。」という聖書の一文と矛盾するではないか、と詰め寄ることだ。

 

 しかし、残念ながら、このような有効な批判をした人物をわたしはまだ知らない。 自分の宗教的確信・循環論(人間理性至上主義)を前提にして、相手の循環論を攻撃するだけの、「ったく・・・」 な レベルの「批判」ばかりだという事実を遺憾に思うのである。

 

 

おまけ:

 

 攻撃のレベルには次の4つがあると思うが、識者の検証をお願いします。

 

 レベル1:相手の土俵に入って論理の内部矛盾をつき、敵を土台から破壊する。哲学的な攻撃。恒久的な破壊力あり。

 レベル2:自分の土俵から離れず、こちらの前提に立って相手の立場を攻撃する。効果は、自分と同じ土俵にいる人々に悪印象を与えることくらいで、仲間内の慰ぶと時間つぶしにしかならない。哲学的だが表面的な批判なので永続的な効果を期待できず。

 レベル3:敵の人格攻撃。議論で勝てないと悟ってはいるが、相手の立場を認めたくない場合に、自分の精神の均衡を保つために採る幼稚な攻撃方法。心理的攻撃。効果は短期的。

 レベル4:物理的攻撃。迷惑メール、ストーカー、いたずら電話、爆弾小包などで相手に打撃を与えようとするサイテ〜の人間の手口。論外。

 

 

おまけのおまけ:

 

 「理屈で負けたら、一切において負けである」。世界は、「情」ではなく、「ロゴス」によって成り立っているのだ。あらゆる組織を動かす土台は思想である。思想に不備があれば、その思想は早晩棄てられる。思想が棄てられると、規則が変わる。規則の変化は組織の全体的変化に至る。

 

 だから、理屈が通らないような主義主張(?)をごり押しする「情の世界」を正当化したら文化もへったくりもないのだ。