神の国の到来は未来だけに起こる?
「神の国は、未来にのみ到来する。」という考え方を、聖書から導き出すことはできません。
ベイカー神学事典(聖書図書刊行会)において、G・ラッドは、次のように述べています。
「イエスは、この世の終わりに栄光をもって到来する神の国が、御自身の人格と使命とにおいて歴史の中にすでに到来したことを教えた。」(p72)
「神の国の奥義とは次のようなものである。すなわち、終末的完成、サタンの滅亡、来るべき世が来る前に、神の国がこの世の中に到来し、来るべき世に属する赦し(マルコ2・5)、生命(ヨハネ3・3)、義(マタイ5・20、ローマ14・17)の祝福を人間にあらかじめ与えるために、霊的な力によってサタンの国を攻略したことである。神の国の義は、神が人間に与える時にのみ実現されうる内的、絶対的義である。(マタイ5・22、48)」(p72)
神の国ははじめイスラエルに与えられていました(マタイ10・5−6)。彼らは、神の国の生まれつきの相続人であり(8・12)、神の民でした。
しかし、キリストを受け入れず、最後に殺害してしまい、神から絶縁されてしまいます。これが現実のものとなったのが、ユダヤ戦争(70年)でした。
そこで、神の国は、実を結ぶ国民に渡ったのです(使徒28・28)。
そして、この神の国は、歴史を通じて発展し、全世界に及びます。そして、あらゆる国民がキリストの弟子となるまでこの発展は続きます。
「キリストは、すべての敵を足下に置くとき、国(彼のメシアとしての権威)を父なる神に返す(第1コリ15・24−28)。いま人間が反抗して支配している国(国々ではない)は、われわれの主とそのキリストの国となり、『主は永遠に支配される』(黙11・15)。」(p71)
「神の国は、1かたまりの粉の中に隠されている少しのパン種のように、ほとんど認めることのできないような形で現存している。しかし、この神の国は、やがて、パン種の入った練粉がこね鉢いっぱいになるように、地上に満ちる(マタイ13・33)。」(p73)
このように、神の国の歴史内の漸進的発展と、終末的完成を混同してはならないのです。終末的完成は、あくまでも歴史における漸進的発展の土台の上に成り立つのです。
歴史内の漸進的発展は、人間を通して実現します。
「神の国は、人間のうちに、また人間を通して働くが、完全に神の行為である。人間は神の国のために事をなし(マタイ19・12、ルカ18・29)、そのために働き(コロサイ4・11)、そのために苦しむ(第2テサロニケ1・5)ことがある。」(p72)
この歴史の過程では、善も悪もどちらも成長します。ですから、神の国と悪魔の国が共存することになります。
「神の国は到来したが、現在の秩序は崩壊してはいない。御国の子らと悪い者のこらとは、刈り入れの時まで、この世において共に育っていく(マタイ13・24−30、36−43)。」(p73)
ですから、現在の世界が悪に染まっているからと言って、神の国が来ていないのだ、などと考えるのは誤りであると言えます。
悪は、その実態があきらかにされるために放置されて、悪いものが熟して切除されるために残されているのです。
ヒューマニズムという悪も、裁かれるために現在肥え太らされています。しかし、それが、神不要の理論である以上、いずれ、刈り取られて、火の中に投げ込まれる運命にあります。
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