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核と平和について

 

>富井様の旧約聖書の「殺せ」という箇所に沿った「核には核を」
>というご意見はキリスト教界の一致した見解ではないということ
>を申上げたいのです。

 

 だれも「殺せ」→「核には核を」なんて言っておりません。

 くり返しますが、「核には核を」の根拠はあくまでも「抑止力になれないようなものでは抑止はできない」ということです。

 キューバ危機の際に、ケネディは、彼のことを「青二才」と呼んでナメ切っていたフルシチョフのミサイル搭載の船団に艦隊を差し向けて交戦も辞さない毅然とした態度で臨んだ。ソ連は、核配備を強行することによって、最終的に自国に核ミサイルが飛んでくる事態にまで発展する恐れがあるというのでやめた。

こういうことでもしなければ人の弱みにつけこんでくるバカがいる。

この世には。

だから問題なんじゃないんですか?

 もし、外交努力だけですべて丸く収まるならば、(戦争をしたがっている奴を除けば)軍備などいらないと皆考えるでしょう。

 通常の対話ではいかんともしがたい事態になるという現実があるので、軍隊があり核がある。あなたは、何か誤解しているようですが、世界で政権を担当している人々が皆善人で、「話せばわかる」人種だとお思いですか???

 「話し合いでなんとか解決しよう。」と言っているうちに、ヒトラーが次々と小国を侵略して、ついには条約破棄してソ連にまで侵攻した。

 日本はかつて痛い思いをしたので、今は力ずくで他国の領土を欲しがるなんてことはしなくなったが、つい半世紀前まではそういうことをやっていた国なんですよ。

 今でも領土拡張欲にとりつかれた人間が世界で戦争をやっている。

 そういった過去や現在があるので、世界各国は軍備を持つんじゃないですか???

 人間をまるまる信用しては政治はやっていけないことぐらい分かりませんか??

 そして、こういった不信を聖書は糾弾しているのでしょうか??

 逆でしょ??

 聖書は、軍備を持たずになんとか頑張れ、って言っていますか?

 聖書を信じる人間は、家に鍵をかけないで寝ろって?

 そういうことをあなたの牧師先生は教えているのですか?

 聖書の一、二カ所をあげて「聖書は無防備を教えている。これが聖書の理想だ。」と言えるんでしょうか?

イエスは「力には力を」という原理を聖書において否定しているなら、じゃあ、次の箇所はどう解釈するのですか?

 

「地の王たちは立ち構え、・・・主と、主に油をそそがれた者に逆らう。・・・天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼等に告げ、燃える怒りで彼等をおののかせる。・・・あなたは、鉄の杖で彼等を打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。」(詩篇2・1−2、9)
 

 「天の御座に着いておられる方」とは、三位一体の神ではないのでしょうか。その中にイエスは含まれていないのでしょうか??

 それとも、イエスは「これは旧約聖書だから信じるな。」とでも言ったのでしょうか。

 キリスト教の抵抗権思想は、スコットランドの改革者ジョン・ノックスに始まりました。イギリスにしろ、アメリカにしろ、クリスチャンは武器を取って信仰の自由のために闘った。じゃあ、彼等の改革は悪魔の仕業だった、ということになるのでしょうか。

 植民地アメリカが独立戦争をして、イギリス本国と戦ったのは、イエスの教えに反することになるのでしょうか。

 こんなこと主張している教会があったら教えて欲しいものです。

 こういった教会の歴史の上にあなたの教会も存在するのではないですか?



>富井様の一個人としてのご意見であるなら,構いません。
>私は富井様に,ご自分の考え方と違う立場の教会や教派については,ど
>う思われるのかと再三お聞きしましたが,お答になりませんので,キリ
>スト教会を背負ってのご意見ではないと判断し,安心致しました。

 使徒信条を信じる教会の中に「力には力で」という原理を完全否定する教会はないでしょう。使徒信条を信じていれば、再臨と最終審判の教理を信じているはずですよね。

「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを裁きたまわん。」とあります。

「裁き」は、神が御自分に敵対するものを力ずくでねじ伏せることです。

 

「わたしがあなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」(使徒2・35)
「すると、天から火が降ってきて、彼等(神に敵対するゴグ・マゴグの反乱軍)を焼きつくした。そして、彼等を惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣(反キリスト)も、にせ預言者もいる所で、彼等は永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20・9−10)
 

こういった最終審判を信じない教会は、いわゆる歴史的諸信条を信じる教会の中にはないでしょう。もしあれば、まっこうから聖書を否定する教会でしょう。つまり、偽預言者の教会でしょう。

 

>> では、教会が国家の道具となったり、また逆に国家の主人となった誤り
>>はどこにあったかというと、それは「御言葉からの逸脱」でした。
>> 王が律法に反することをした時に預言者が起こされ、警告しましたが、
>>逆に彼等を殺して、自分に都合の良いことを言う預言者たちを回りに集めま
>>した。 このような例は、列王記や歴代誌にたくさん挙げられています。

>「汝の敵を愛せよ」というイエスの言葉を念頭においての活動は御言葉か
>らの逸脱なのでしょうか?
>また一信徒としての質問なのですが,このイエスの言葉と旧約の「殺せ」
>という神の言葉はどのように調和するのか,是非知りたいと思います。
>何度もお聞きしていますがお答になって下さいません。

 

殺人について:

 旧約聖書においても、新約聖書においても、国家は「義の下僕」であり、教会は「恵みの下僕」なのです。

 国家は犯罪者を処罰しなければならない。そうすることによって、「御心が天でおこなわれるように地上でもおこなわれる」ことになる。

 もし、殺人者がのうのうと生き延びて巷を闊歩するなら、社会は無秩序になり、正義とはほど遠い状態になります。

 旧約聖書において殺人者を「殺せ」と言われているのは、神の義の実現のためであり、けっして「復讐」ではありません。復讐は律法の中において禁止されています(旧約聖書からの引用ですぞ!)。

 「復讐してはならない。あなたの同胞に対して恨みを抱いてはならない。あなたは自分自身のようにあなたの隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19・18)

 罪に対して刑罰を加えることは、十戒に定められた「利己的な動機による私的殺人」の禁止には含まれません。防衛戦争における殺人も、同様です。

 神の法秩序を破壊する殺人を殺人と呼ぶのであって、あらゆる種類の「人を殺害すること」が聖書において殺人と呼ばれているのではありません。

 ですから、無実の罪の人が処刑されているのをみすみす見逃すことも聖書では殺人と定義されているのです。

「あなたの隣人の血の傍らにむなしく立ってはならない。」(レビ19・16(マソレテ本文ユダヤ訳))
「偽りの告訴を遠ざけよ。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。」(出エジプト23・7)

 それゆえ、無辜の市民が侵略者に殺されているのに、それを防衛しないことも殺人罪になるのです。防衛しているとしても、それが明らかに侵略者から身を守ることのできない防衛であれば意味がありません。

 「突く癖のある牛を、その牛が突く癖があると知りながら放し飼いにして、それによって人が死んだ場合に飼い主に過失殺人罪が適用される」という律法の規定からもわかるように、不十分な防衛や安全対策は、過失殺人にあたります。

 また、侵略者に対して武器を取って戦った結果、彼等を殺害する結果となった場合、それは殺人ではありません。また、律法を犯しているわけではないので、愛のない行為でもありません。

敵を愛するということについて:

 聖書では、復讐が禁じられており、むしろ、敵に対して悪を持って報いず、善をもって報いよと語られていますが、そのとおりです。じゃあ、戦争において相手を殺すことはできないじゃないか、ということになりますが、侵略軍との交戦において敵を殺害することは罪ではないと明記されているのですから、敵を愛していないということにはなりません。

 「いやいや、殺されたり傷ついたりすることは相手にとって不快だろうから、相手を殺害したり傷つけることは悪だ」ということはこちらが心配する問題ではないでしょう。殺されたり傷つけられたりするのは、他人のものを欲しがって侵略するからです。侵略しなければ殺されることも傷つくこともない。

 それから、もし、相手の立場を尊重して相手を傷つけないようにしなければならないというならば、こちらは相手の侵略行為の前に「やられっぱなしになれ」ということになります。その場合、侵略した側を愛したために、無辜の市民が殺されたり傷ついたりするということになる。

 どちらを守るべきなのか?貪欲な侵略者か、それとも、遵法的な市民か???

 そのような「愛」は、犯罪者を愛して、正しい人を憎むことにならないか?

 防衛戦争は合法的ですが、それでも、復讐心とか憎しみの心によって行うならば悪になります。

 戦争は私的な怨恨からなされるべきものではありません。あくまでも、自国または自分に神が与えてくださった秩序を保持するためにのみ行われます。

 ですから、戦争は避けられない場合だけに合法的になります。

また、戦闘行為を離れた場合、敵を愛することは、彼等に必要なものを与え、彼等が望むこと(合法的なことに限る)を行うという形になります。

 

 「敵が飢えたら、食べさせなさい。」

 これは、対人関係においても有効です。

 子どものいじめがあった場合、それを防衛しないと要求がエスカレートして、追いつめられて殺されてしまいます。これは、自分を神の似姿、尊い者として造って下さった神の御心を損ないます。自分は、神の似姿としての自分自身を守る責任があります。

 ですから、相手に対して自分の主張すべきことを主張する必要があります。それにもかかわらず相手が過大な要求や嫌がらせをしてくるならば、避けることです。それでもだめならば、上部機関に訴えます。それでもだめなら、法に訴えます。個人の場合、制裁は国家どまりであり、国家の制裁がきかない場合に、もはや相手を取り扱う手段はありません。聖書は決闘やリンチを許していないのです。その場合は神の御手に完全に委ねます(もちろんすべての過程において神への依存は必要なのですが)。

自らが非合法の手段で相手を攻撃すると、復讐になってしまいます。

場所や立場によって状況が異なるので、バリエーションがあるとは思いますが、聖書の問題解決の正当な手続きはボトムアップ方式(申命記1・9−18)だということです。そして、この上訴の過程ではいっさい復讐心を差し挟んではならない。

私たちは、国際問題であれ、対人関係であれ、あらゆる事柄が聖書の基準に合致することを目指しているので、相手を聖書の基準通りに取り扱うべきだと思います。

国際紛争においては、最大限の和平交渉の後、侵略者と交戦する場合がある。

個人においては、話し合いの努力を尽くした後に立てられている権威に上訴する。

このような合法的な手続きを踏むことは、敵を愛さないことであるとは言えません。聖書の法秩序に従うことが愛の具体的な形なのですから、このようにしたからといって愛がないということにはなりません。

 

>> 国家の道具となった預言者たちは、神の裁きが近づいていることを告げずに
>>「平和だ」「平和だ」と叫んだ。

> はて?キリスト教でいう平和とは神との和解ですよね?
> 私が述べている平和の意味については「平和」という掲示の中で述べています。

 

 「キリスト教でいう平和とは神との和解」だけではありません。

 聖書におけるシャローム、エイレネー(平和)は、「戦争がないこと」「完全さ」「健全さ」「調和」など様々な意味があります。神がたてた秩序と完全に調和している状態を表す言葉です。その調和が、国際政治においては「戦争がないこと」になるし、心の状態においては「平安」になる。神との関係においては「和解」になるし、人との関係においては「和合」になる。

 

 「平和(シャローム)だ」「平和だ」とは、エレミヤ6・14とか8・11のことです。

「彼等は、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安(シャローム)がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」(エレミヤ6・14)

 

> 私が疑問なのは
> 何故,富井様は「国家という枠組み=国体」の
> 護持に、血道を上げなければいけないのか、という根本的な部分での
> 疑問があるわけです。また私は、「自衛」とは、外交や政治や経済、
> あるいは文化や思想も含めた物ではないかと考えています、という
> R氏の意見に同意するものです。

 

 何でもそうですが、ある事を述べた場合、その人が自分の考えをすべてその中に含めることができて、考えていることを完全にいいつくせるという可能性は極めて少ないわけですから、わたしが国家以外のことも自衛に含めていないと結論することは早急すぎると思います。

 仰るとおり、「自衛」とは、外交や政治や経済、あるいは文化や思想も含めた物について言えるのです。だから、護教(apologetics)を熱心にやっているんじゃないですか。

 国家をはじめ、外交や政治や経済、あるいは文化や思想、あらゆる神が定めた合法的な制度や秩序や思想を防衛することが大切だと考えているわけです。

 クリスチャンの主な使命は、神の国の発展です。

 

「地を支配せよ。」「神の国とその義を第一にしなさい。」「あなたの御心が天でおこなわれるように、地上でもおこなわれますように。」「出ていってあらゆる国民を弟子としなさい。わたしが命じたすべてのことを守るように彼等に教えなさい。」
 

> 結果的に「汝の敵を愛せよ」との御言葉にそって活動されている韓国
> の金牧師の活動は日本と韓国の架橋ともなっています。ここにもあな
> たの引用された御言葉

>>また、聖書では7年ごとの安息年、50年ごとのヨベルの年の規定が
>>あって、それまでの負債をすべて免除されるという規定がある。

> は生きると思います。だから彼は日本兵に父を殺されているけれど日
> 本に復讐しないのです。日本の過ちを帳消しにして日本妻を助けてい
> るのです。

 わたしも「知ってるつもり」を見ました。

このような働きをしている人はすばらしいと思います。

 

> さて,あなたが「核には核を」と「目には目を」的な正義を振りかざ
> されると一体イエスの恵の福音はどうなってしまうのでしょうか?
> これが疑問なのです

 

あなたには、2つの誤解があります。

 

(1)旧約聖書の「目には目を」は復讐を教えていません。

これは同害刑法であって、復讐を規定しているものではございません。

刑罰は罪と比例したものでなければならない。

故意に目を損なった者に対する刑罰は目と同等の価値のあるものによって償われる、ということです。目には生命をということにはならない、ということです。

人間の恣意によって刑罰が決定されることを防止します。

(2)「核には核を」は、復讐することを勧めるために述べたのではありません。

聖書時代、人々は隣国の侵略を防ぐために都市の回りに城壁を築きました。

エルサレムには現在でも遺っています。

もしその城壁が低かったり、崩れていたりしては、意味がありません。

敵の攻撃を防ぐのに有効なものでなければ役に立ちません。

イスラエルには軍隊がありました。常備軍ではないが、敵の侵略に対抗できるだけの軍備を持っていた。

わたしは、現代の国家防衛も同じことが言えると思っています。

核ミサイルを保持している隣国から自国を守るには、防壁や空間的遮蔽物はもはや通用しません。ミサイルは空から降ってくるからです。

それでは、どのようなものが核攻撃に対して抑止力となるかということを考える。

通常兵器によって防衛することができればそれに越したことはない。いや、理想を言えば、どのような兵器も持たずに防衛できればよいわけです。

戦争に至らないようにできるだけの努力をして、外交において問題を解決しようとする。しかし、それでも解決できないような問題が起こったらどうするのか。最悪に備えることがなければ防衛に関しては無能な政府ということになるでしょう。

「塔を建てる時に、費用を計算しないものがあるか。」という問いはここにも適用できるでしょう。

犯罪者は、法をよく知っていると友人が言っていました。これをやったらどのようなことが起こるのか、死刑になるのか、それとも無期なるのか。

行為の結果を知らせることは、犯罪の抑止になるのです。

 

>> 聖書を絶対啓示とせずに、自分の意見を優先させる預言者は「偽預言
>>者」とされていたのです。彼等は不遜にも「主の名を使ってわたしが述
>>べてもいないことを語った」のです。彼等は機嫌取りであり、人気こそす
>>べてだった。「聖書にはこうあるかもしれないが・・・」というのは絶
>>対禁句なのです。
> これはむしろ私が富井様に申上げたいことです
> 終末を楯に取り,「核には核を」とあなたの意見を言明されることは
> 聖書の言葉よりご自分の意見を優先させてはいらっしゃいませんか?


 あ〜、力が抜けますねえ。

 「終末を楯にとって」って何のことを言っているのですか???

 2000年問題が終末預言であるとわたしが言いましたか???

具体的に語った言葉によって相手を批判するならば、有効な批判ということにもなりますが、ただ印象とか感じで人を批判するというのは単なる中傷です。

 

> 私は心情的には富井様のいわれることの方がしっくりします
> 「目には目を」的に敵を倒す方がよほど簡単なことだと思うからです。
> ですがイエスは「汝の敵を愛せよ」と仰せられました。

> 民族間の長い感情のこじれについては,この言葉は大変有効であると思
> います。
> 「終末が来るから,武装しろ 核には核で!」と仰るあなたのご意見には
> 賛同できません。それこそ社会に混乱を来たらせる発言ではないでしょう
> か?

 

 わたしもT氏も、後千年王国論者であって、近日中に終末が来るなんて言ったことはありません。

 「終末が来るから,武装しろ 核には核で!」とどこで言いましたか。

2000年問題は、コンピューターにまつわる社会問題としてしかとらえておりません。そのことをメールでも述べました。なぜわたしの説明を無視するのですか???

 

> T牧師は備えよと仰せられていますが,核には核をなどとは仰せら
> れてはいません。殺しあいをして自国を守れとは述べておられないと
> 思います。


  殺し合いをしないでどうやって戦争をするのでしょうか。

 ということは、あなたは絶対非戦論者ですか???

 戦争はどのようなものでも悪だということなんですね。

 それじゃあ、聖書の中においてあまたの戦争を命じた神は罪を犯したのですね。

 あなたは神を罪とする。

 恐ろしいことです。

 それから、先日わたしは、T牧師の教会に呼ばれて講義してきました。

 彼等は、熱心に、わたしの講義を聴いて、後で熱心に質問してきました。

 牧師とはかれこれ10年来のつき合いになります。

 彼等はペンテコステ派ですが、これまでわたしの考え方が問題になったことはございません。ペンテコステのマルコーシュ出版社から友人と共同で翻訳本も2冊出しました。現在、もう一冊翻訳しているところです。

 改革派系からも2冊出しました。

 聖書信仰に立つならば、私たちは共通の話ができるのです。

 改革主義であれ、福音派であれ、これまで要請されるならどこでも講義や説教をしてきました。

 わたしの考え方が正統主義にたつ教会から異端の烙印を押されたことはありません。

 むしろ、絶対非戦論を唱える教会のほうがまれでしょう。






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