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聖霊は人格ではない?(その2)



(Q)聖書では、あるものを擬人化するのは珍しいことではありません。知恵には子どもがあると言われています(ルカ7:35)。罪や死は王と呼ばれています(ローマ5:14、21)。「罪は戸口にうずくまっている悪霊である」(創世記4:7)となっており、罪がカインの戸口にうずくまっている邪悪な霊として擬人化されています。しかし、もとより、罪は霊者ではないので、聖霊を擬人化しても、それが霊者になるわけではありません。同様に、ヨハネ第一5章6節から8節では、霊だけでなく、「水、および血」もまた「証人」であると言われています。しかし、水や血は明かに人格的存在ではありませんし、聖霊も人格的存在ではありません。

(A)

(1)<戸口にうずくまっている邪悪な霊として擬人化されています。>

 霊にあたるギリシャ語 πνενμα は、聖書全体で385回出てきますが、それから聖霊を除いたもののうち、97パーセントが人格です。

 πνενμα が、何らかの非人格的な力として使われている例(息とか風など)は、ほんの数例です。

 掲示にありましたように、もし悪霊が人格であるとお認めになるならば、同じ πνενμα である聖霊はなぜ人格ではあってはいけないのでしょうか。

 悪霊が戸口にうずくまっている邪悪な霊として描かれているならば、どうして、「イエスを荒野に導いていった」(マタイ4・1)聖霊は人格を持っていてはならないのでしょうか。

 怒ったり、悲しんだり、喜んだりする人間の霊が人格として描かれ、悪霊が人を誘惑しようとして待ちかまえている人格として描かれているのであれば、どうして「悲しん」(エペソ4・30)だり、「うめき苦しみながらとりなしをする」(ローマ8・26)神の霊も人格と考えることはできないでしょうか。



(2)<ヨハネ第一5章6節から8節では、「水、および血」もまた「証人」であると言われています。しかし、水や血は明かに人格的存在ではありませんし、聖霊も人格的存在ではありません。>

 3つのものを並べて、2つが非人格だから、もう一つも非人格だ、ということはできません。例えば、

 ここに、ある殺人犯罪を証言する3つの要素が集まったとします。

 1つは、血痕のついたナイフ、犯人の指紋、そして、それを目撃した通りがかりの人。

 「あかしするものが3つあります。2つは人格的存在ではありません。だから、目撃した通りがかりの人も人格的存在ではありません。」と言うことはできません。






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