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聖霊は人格ではない?



(Q)三位一体の教理によれば、聖霊は父および子と同等な神の第三の位格もしくは人格的存在です。しかし、聖霊という語の聖書中の用法は、聖霊とはエホバ神がご自分の多様な目的を成し遂げるためにお用いになる、制御された力であることを示唆います。それは電気、つまり多種多様な働きを行えるよう調整できる一種の力に例えることができるでしょう。



(A)聖霊は人格です。

 (1)聖霊には、人称代名詞が使われています(ヨハネ14・17、16・13など)。「真理の御霊」の御霊πνευμαは中性名詞ですが、代名詞は人格性を表すεκειυοsという男性形が用いられています(ヨハネ16・13)。

 (2)聖霊は「助ける者παρακλητοs」と呼ばれています(14・16、26、15・26)。このπαρακλητοsは、παρακαλεω(呼び出す)の派生語であり、傍らに呼ばれた人→法廷で弁護のために呼ばれた人→弁護士という意味と、一般的な、補助員、アシスタント、ヘルパーという意味になりました。

 弁護士やアシスタントや補助員は、全て人格です。何かのエネルギーや電気のような力が弁護をしたり、アシスタントになったり、助っ人となることはできません。弁護士は、意思をもって、法廷で被告のために弁護します。営業のアシスタントは、営業マンの仕事がうまくはかどるように、様々な手伝いをします。それと同じように、聖霊も、クリスチャンのそばにいて、絶えず弁護し、気落ちしたら励まし、必要なものがあればそれを与え、危急の時には助けの手をさしのべてくださっているのです。このようなお方が、人格ではないとは言えません。

(B)聖霊の人格的特質

   (1)知性・感受性・意思という3つの人格の基本要素を備えている。

   (a)知性

      
神のみこころは、神の御霊のほかにはだれも知りません。(第1コリント2・11)


   (b)感受性

御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(ローマ8・27)

     神の聖霊を悲しませてはいけません。(エペソ4・30)

   (c)意思

しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。(第1コリント12・11)(*)

(C)聖霊の人格的行動

 聖霊は、人格的行動を取られます。聖霊は、働き(第1コリント12・11)、ものごとをきわめ(第1コリント2・10)、語り(使徒13・2、黙示2・7)、あかしし(ヨハネ15・26)、教え(ヨハネ14・26)、譴責し(ヨハネ16・8−11)、生まれ変わらせ(ヨハネ3・5)、祈り(ローマ8・26)、真理に導き(ヨハネ16・13)、キリストに栄光を帰し(ヨハネ16・14)、人々を奉仕へと召し(使徒13・2)、奉仕において人々を導きます(使徒16・6−7)。(*)

(D)聖霊の人格的な扱い

 聖霊は、人格的に扱われています。聖霊は、試みられ(使徒5・9)、欺かれ(使徒死と5・3)、悲しませられ(エペソ4・30、イザヤ63・10)、反抗を受け(使徒7・51)、侮られ(ヘブル10・29)、けがされることが可能でした(マタイ12・31、32)。(*)

 これらのことから、聖霊が人格であると聖書ははっきりと述べているのです。



(*)ヘンリー・シーセン著『組織神学』(聖書図書刊行会)238−239ページより。








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