聖書の無謬性について
(1)聖書はイエスが正式な証人として任命された人々の手によるものである
聖書が神の言葉と言われているのは、聖書が、神に正式に任命された正当な証言者に
よるものであるからです。イエスは、使徒を任命され、イエスの御業の目撃者証言者
とされました。律法には、二人または三人の証言がなければ、その証言を受理しては
ならない、とあります。ですから、イエスは、必ず二人または三人の弟子を連れて奇
跡や御業を行われた。
聖書はそのようなイエスの正式な任命を受けた証言者による証言なので、神の権威が
あると考えられる。「全世界に出ていってすべての造られた者に福音を述べ伝えよ。」
と命令されたのは弟子たちでした。それゆえ、初代のクリスチャンたちが、聖書とし
て認め、正典として受け入れた基準は、その文書が使徒または使徒に随伴して使徒の
権威のもとにその証言を忠実に書き記す資格のあるものによるかどうか、という点に
あったのです。(注1)
(注1)神が被造物を統治される方法は、直接統治ではなく、代理統
治でした。人間は神に任命された管理者でした。この原則は、御心の啓示という点で
も真理なのです。
神が御心を啓示される方法は、一部の例外を除いて直接的ではありません。神が国
会やテレビに出演したり、教会の講壇に立って説教されることはない。代理者を任命
して彼らにやらせるという方法をとります。ですから、聖書は、神に任命された代理
者によって書かれているのです。神が人間を創造されたのは、神の似姿として神の御
心を忠実に実行させることによって、神の霊的なご性質を肉眼や耳で知覚できるよう
に顕現するためでした。
それゆえ、人間が有限者であり、また、罪人であることから、神の御心の顕現に
は、人間の不完全さが常につきまとうのですが、しかし、神はそのような不完全さを
も神のみ心の啓示の方法としてお認めになっておられる。また、その不完全な啓示に
従えと命令しておられる。これは、子供に対して両親に従えと命じておられることと
同様です。両親は完全に神の御心を実行しているわけではない。人間としての未熟さ
を常にかかえている。しかし、それでも、神はそのような我々を子供に対する権威と
して立ててくださっている。
それゆえ、聖書が不完全な人間の手によるものであり、神の御心が不完全に啓示さ
れているから、聖書には信頼が置けないということにならないのです。
(2)聖書は神の霊感によるものであり、聖書の著述目的に沿った事柄において無謬
である
「聖書は、神の霊感によるものである」と言われており、聖書記者が記述する際に神
の霊的な導きがあった。もちろん、科学的な事柄において、世界知識において、当時
の人々の未熟な知識を前提として記述されているわけですが、そういった未熟さを神
は容認しつつ、しかも、神の啓示の目的という点において、聖書は完全に誤謬から守
られている。つまり、聖書の著述目的以外の点、例えば科学的な知識において、聖書
には当時のユダヤ人の世界認識が反映されています。彼らは、空の上には水があると
考えていた。天は何層から成っており、それらに様々な霊的な存在があると考えてい
た。そういった誤謬があります。しかし、聖書自体が科学の教科書として書かれてい
るわけではないのですから、そういった誤謬について、目くじらを立てる必要はない
し、また、それゆえに聖書の無謬性に疑いをかける必要はないのです。
「聖書にはこのような科学的な誤謬がある。だから、聖書の律法を守る必要はない。」
という結論を出せない。聖書は、人間が統治者としての使命を実行するにはどうした
らよいか、ということを記している契約の書なのですから、その文脈から外れたとこ
ろにおいて完全性を追求しても無意味であると同時に、契約文書として記述された事
柄についても、科学的誤謬のゆえに誤りと断定することは適切ではない。
つまり、聖書の無謬性は、あくまでも聖書の文脈にそった部分において無謬であると
いう限定的な無謬論以外ではないということです。(例えば、詩において「水がわた
しを飲み込んだ。」という個所がある、これは、科学的に間違いである。だから、こ
の詩には信頼が置けない、と言えない。)(注2)
(注2)じゃあ、創世記の創造の個所は、科学的な誤謬として無視し、進
化論を採用してもよいのか、というとそうではない。創造は、神の契約者として絶対
に欠かすことのできない要素であり、もし、神が創造者ではないということになれ
ば、神は人間に対して、契約的命令を発する権利がないということになります。人間
が神の命令を守らなければならない、そして、その命令に違反した場合に刑罰を受け
るということは、その命令を発したのが自分を創造したお方であるから、という理由
以外の何物でもない。だから、創造の記述を誤謬とみなすことはできないのです。
文学的要素においても同じことが言えます。 ヨブ記には、ヨブの友人た
ちとヨブの対話が詩的に表現されています。それぞれの段落の頭文字が、ある秩序を
なすように配列されている(つまり、各段落の先頭の文字がへブル語のアルファベッ
ト順になっている)。これは、実際に彼らがそのように語ったということを意味して
いるのではない。事実の記述書としての厳密さをヨブ記に求めることはできない。そ
のような不完全さや恣意性をあげつらって、だから、聖書には誤りがあるということ
にはならない。もちろん、「歴史書、事実の記述書として誤っている」ということは言
えます。しかし、そのような指摘は、まったく著者の意図を無視しているのでナンセ
ンスなのです。
神の契約的な意図の文脈にそった部分について聖書は完全に神の御心を啓示してい
ると言えるのであり、それゆえ、人間はその意図に関する点において、聖書を神の啓
示として受け入れなければならないのです。
(3)聖書は、神の意図の文脈に沿った読み方をすることによって、神の真意を読み
取れる
聖書が不完全さを帯びているということには、次の理由がありました。
(1)人間の手を経由している(人間以外の手を通して啓示するという方法を神はと
られない)
(2)聖書は真の著者である神の意図に基づいて著述されているので、その文脈を離
れた部分において無謬である必要はない
それゆえ、人間は、この2つの条件にそって聖書を正しく解釈すべきです。
つまり、人間の手を経由しているのですから、その人間の限界を視野に含めつつ聖書
を読み解く必要があるのです。そういった意味において、聖書は人間が正しく生きる
ために完全な情報を提供しているのであり、人間の不完全さを理由にして、正しく生
きることに失敗したという言い訳をすることはできません。
神の啓示はこの意味において完全であり、もし、人間が正しく生きることに失敗した
ならば、それを聖書の不完全性に帰することはできない。(注3)
(注3)被造物支配という点において、科学的知識の獲得のために聖書を権威として
利用することの限界も以上から明らかになります。あくまでも実証的な科学は、それ
が聖書の契約的意図を無視しない限りにおいて、有効である。 つまり、聖書は、科
学の教科書ではないわけですから、それを元にして科学的知識を得ることはできない
が、その科学的知識が、神と人間との聖書の主張を脅かすならば、それを拒絶すべき
である、ということになります。
例えば、進化論が正しいということになれば、アダムとエバの堕落も間違いという
ことになり、キリストの贖罪もそれゆえにむなしいということになります。これはキ
リスト教の崩壊だけではなく、人生に意味はないということにもつながる虚無的な結
果を生み出さざるを得ない。こういった虚無主義や相対主義を生み出す科学的な知識
は、そもそもそれが科学的論証に重大な不備がある(例えば、進化の証拠の欠如)と
いう欠点だけではなく、実存的な意味においても、人間にいかなる意義をも与えない
のですから、断固拒絶すべきだと思います。
それゆえ、わたしは、「実存的解釈」とも言うべき聖書解釈の基準があると思いま
す。
つまり、そのように解釈すると人生や世界に意味がなくなるような解釈は絶対にす
べきではない、という解釈法です。
これは、あくまでも人生には意味があるという聖書の全体的な主張を一つの「信
仰」「前提」として据えているという意味において、正当な解釈法だと思います。つま
り、神が存在するか否か、ということが人間にとって証明の対象ではないということ
と同様に、人生に意味があるということも、それを懐疑の対象としてみるのではな
く、それを前提として受け入れなければならない、それは、人間にとって問答無用の
義務なのだとしなければならない、と考えるのです。