非合理なるがゆえに信ず?
啓蒙主義の時代から、人間の思考の前提は、聖書が語っている超越の世界を切り捨てる、というところにありました。つまり、「合理化」という言葉には、聖書が語っている神とか、律法とか、イスラエル民族の運命などを、超越神の介入なしで解釈しようという態度が背景としてあります。
したがって、奇跡も否定されますし、イスラエルが捕囚にあったり、繁栄したりしたのは、神の祝福や呪いのためではなく、純粋に経済的・軍事的な問題であった、と。
しかし、これは、一つの前提(つまり神はいないという前提)に従った解釈であって、それも一つの信仰なわけです。
無神論の立場にたつと、モーセが紅海を渡ったのも、イエスが病人をいやしたのも、神話であるという解釈になります。しかし、これが、正しいと証明するためには、どうしても、神が存在しないことを証明しなければなりません。
有神論の立場にたつと、奇跡は、超自然的意思の介入であると解釈できます。
つまり、この宇宙の外には、人格神が存在して、その神の意志によって、自然の法則を越えた力が働いた、ということになります。
ですから、信仰を獲得するということは、どちらの前提を選択するか、ということであって、理性を捨てて、非合理に逃げ込むということではありません。
有神論の立場も、無神論と同様に、世界を理性によって解釈しようとすることに変わりはないということができます。
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