i・MODE→  

イエスは神であるとは主張しなかった?



(Q)イエスはご自分が神であるとは決して主張されませんでした。

(A)聖書には、イエスが、ご自分が神であることをはっきりと主張された箇所がいくつかあります。

 (1)イエスは、神にしか許されない罪の赦しを行っています。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」(マタイ9・5)ここで、イエスは自分からはっきりと、罪を赦す権威があることを宣言しておられます。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」(同9・6)

 罪の赦しは、神だけができる行為でした。罪はすべて、神に対して犯されるものであり、それゆえ、人間が赦すことはできません。当時のユダヤ人は、ヨブ記14章4節「だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。」を、次のように言い換えていました(Gill, Mrk 2:7)。

 「だれが罪に汚れている人間から清い人間を出すことができるだろうか。彼を赦すことができる神以外いないではないか。」

 このような意見が一般的である世の中で、「罪を赦す権威がある」と主張することは、私は神であると述べるのと同じことなのです。だから、この言葉を聞いたユダヤ人は、怒って次のように言ったのです。

 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」(マルコ2・7)

 (2)イエスは、神にしか許されない礼拝をお受けになっています。

 「11人の弟子たちは、・・・イエスにお会いしたとき、礼拝した。」(マタイ28・17)

 神は、十戒の第一戒において、「私の顔の前に、あなたがたには、他の神々が存在してはならない。」と命令されています。もしイエスが完全な人間であるとしたら、礼拝を受けて平気でいるというのは、矛盾しています。そのような人間は、完全な人間でも何でもなくて、むしろ神の最大の敵でしょう。礼拝を受けたときは、大慌てで、「やめてください! 私はただの人間です。」と叫ぶはずです。ペテロやパウロや天使なども礼拝を受けることを頑固に拒否しています(使徒10・24−25、黙示19・10、22・8、9など)。

 (3)自分のことを、神の性質を持つと宣言しておられます。

 ヨハネ黙示録1章8節において、イエスは、このような者であると言われています。

 「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」

 「神である主κυριοs ο θεοs」:ここにおいて、まず、ヨハネは主イエスは神であることを明確に宣言しています。

   「常にいましο ων」:このギリシャ語は、the one who is 、つまり、「存在する者」という意味です。これは、ヘブル語の神の御名「われは存在する」(出エジプト3・14)と類似しています。これは、存在の根源者であることを示す名前であり、人間にはとうてい用いられない呼称です。また、興味深いことに、イエスは、非常にしばしば、このヘブル語の神の御名を唱えているのです。ヘブル語の「われは存在する」という御名のギリシャ語訳は、εγω ειμιですが、ユダを先頭としてやってきた捕縛者たちに対して、イエスは、「εγω ειμι」と言います。

 「彼らは、ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです(εγω ειμι)。」と言われた(ヨハネ18・5)。

 イエスが裁判において、神の子であるか尋ねられた時に、この神の御名を唱えています。

 「彼らはみなで言った。『ではあなたは神の子ですか。』すると、イエスは彼らに『あなたがたの言うとおり、わたしはそれです(εγω ειμι)。』」(ルカ22・70)

 つまり、イエスは、旧約において御自身を御名において啓示されたヤーウェの神と同一であることを自分で証言なさったのです。

 イエスは、万物の根源者であることがこの「ο ων」の呼称から推察できます。

 「昔いましο ην」:これは、the one who was (存在していた者)という意味です。イエスは、ただの人間ではなかった。自分はアブラハムよりも前から存在するのだ、と言われました(ヨハネ8・58)。

 「イエスは彼らに言われた。『たしかにあなたがたに言います。アブラハムが存在する前から、わたしは存在する(εγω ειμι)。』」

 ここでもεγω ειμιが言われています。つまり、アブラハムの存在する前から、自分は「εγω ειμι」つまり、神である、とここで宣言されたのです。  ユダヤ人にとって、このεγω ειμιは、決定的な冒涜でした。なぜならば、神の本質を示す御名を自分の呼称として用いたからです。それで、ユダヤ人は、イエスを石打ちにしようとしたのです。

 「すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。」(59)

 「後に来られる方ο ερχομενοs」:これは、the one who will come (やってくる者)という意味です。つまり、イエス・キリストは、再びやって来られるお方であるということです。これは再臨のことを指しているのか、それとも、この手紙が書かれた時点で、間近に迫っていたユダヤの滅亡のためにやってくるかは議論が別れます。わたしは、これは契約の民であったユダヤ人の裁き(紀元70年)のためにやってこられることを示していると考えます。というのは、「すぐにわたしは来る。」と述べられているからです。「すぐにευ ταχει」は、「2000年後」のことではあるはずはありません。間近に迫っている、切迫した雰囲気がこの手紙全体から読みとれるでしょう。

 とにかく、キリストは裁くために来られると繰り返されているわけです。裁く者とは神ではなくて何でしょうか。律法への違反に対する最終的な解答は裁きであり、刑罰です。人間は、裁くことはできません。人間は裁きの座に立つべき立場にあります。

 「万物の支配者ο παντοκρατωρ」:これは、辞書を見ますと、「he who holds sway over all things; the ruler of all; alighty(万物を支配する者、万物の統治者、全能者)」とあります(Thayerユs Greek-English Lexicon of New Testament)。

 この語は、七十人訳では、tsevaoth の訳語となっています。この言葉は、yehvah tsevaoth (エホバは万物を支配する)というフレーズの中で用いられています。

 したがって、万物の支配者という称号が与えられている存在を神であると認めないわけにはいかないのです。

 「わたしはアルファであり、オメガである。」:これは、イザヤ44・6の「万軍の主は言われる。『わたしが初めであり、終わりである。わたしを除いて神はいない。』」と対応しています。つまり、アルファであり、オメガであると言うことによって、イエスは、御自身がイザヤで預言された神であることを宣言されたのです。






ホームページへ