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神は死ぬことがない?



(Q)イエスは死に臨んで、「わが神、わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエスが神であったなら、イエスはだれに見捨てられたのでしょう。イエスはまた、「父よ、わたしの霊をみ手に託します」と言われました。もしイエスが神であったなら、どんな理由があってご自分の霊を父に託されたのでしょう。

(A)イエスがあたかも人間の弱さを持っていたかのように示されている箇所が聖書にあるのは、イエスが神の姿を捨てて人間の身代わりに刑罰を受けたことを示すためです。もし、そうする気がなければ、イエスは神の栄光の姿のままにとどまっていたことでしょう。

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2・6)


 そして、十字架の死にまでも従われたのです。

 キリストは人の性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(同8)


 これは、イザヤ書において預言されていた、キリストの姿なのです。

 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちのとがのために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かっていった。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から断たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかった。(イザヤ53・1−9)


 イエスは、神であったのに、人間を救うために、預言のとおりに、自分から進んで死なれたのです。



(Q)イエスは亡くなった後、約3日間墓にいましたが、もしイエスが神であったなら、「わたしの神、わたしの聖なる方、あなたは死なれることはありません」(ハバクク1:12)は間違っていたことになります。


(A)旧約聖書では、キリスト(メシア)が、殺されると預言しています。

 彼は自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられた・・・。(イザヤ53・12)

 そして、このキリストは、神であると預言されています。


 見よ、人の子のような方が天の雲にのってこられ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル7・14)

 永遠の主権が神以外の者に与えられるとすれば、「永遠の主権は神のものです。」(第1テモテ6・16)と矛盾します。また、聖書において、「天の雲に乗る」という表現は、神の栄光を表現しています(イザヤ19・1など)。詩篇では、天の雲に乗るのは、神であると言われています。


雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主(エホバ)。その御前で、こおどりして喜べ。(68・4)


 それゆえ、キリストは、神であり、このキリストが殺されることが、旧約聖書において預言されていたのです。

 さらに使徒の働きにおいて、いのちの根源である神が殺されることがあると述べられています。

 あなたがたは、・・・いのちの君(源)を殺しました。(使徒3・15)

 ですから、「死んだから神ではない」とは言えないのです。

 ハバククにおいて言われていることは、神の属性の宣言でしかありません。つまり、神とは不死のお方なのだ、と述べているのです。本来ならば、神は死ぬことがありません。しかし、神は、ある目的のために死なれることもあるのです。それは、死ぬこと以外に、人間を赦す道は存在しないからです。

 「罪から来る報酬は死である。」(ローマ6・23)

 罪を犯したすべての人間が死ななければならないとすれば、このような死を免れさせるためには、人間の身代わりにご自分が死ぬ以外にはありません。

 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」(ローマ4・25)







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