キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2・6)
そして、十字架の死にまでも従われたのです。
キリストは人の性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(同8)
これは、イザヤ書において預言されていた、キリストの姿なのです。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちのとがのために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かっていった。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から断たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかった。(イザヤ53・1−9)
イエスは、神であったのに、人間を救うために、預言のとおりに、自分から進んで死なれたのです。
(Q)イエスは亡くなった後、約3日間墓にいましたが、もしイエスが神であったなら、「わたしの神、わたしの聖なる方、あなたは死なれることはありません」(ハバクク1:12)は間違っていたことになります。
(A)旧約聖書では、キリスト(メシア)が、殺されると預言しています。
彼は自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられた・・・。(イザヤ53・12)
見よ、人の子のような方が天の雲にのってこられ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル7・14)
永遠の主権が神以外の者に与えられるとすれば、「永遠の主権は神のものです。」(第1テモテ6・16)と矛盾します。また、聖書において、「天の雲に乗る」という表現は、神の栄光を表現しています(イザヤ19・1など)。詩篇では、天の雲に乗るのは、神であると言われています。
雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主(エホバ)。その御前で、こおどりして喜べ。(68・4)それゆえ、キリストは、神であり、このキリストが殺されることが、旧約聖書において預言されていたのです。
あなたがたは、・・・いのちの君(源)を殺しました。(使徒3・15)ですから、「死んだから神ではない」とは言えないのです。
「罪から来る報酬は死である。」(ローマ6・23)罪を犯したすべての人間が死ななければならないとすれば、このような死を免れさせるためには、人間の身代わりにご自分が死ぬ以外にはありません。
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」(ローマ4・25)