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ことばは神でなかった?



(Q)それに、ほかの翻訳では、その節のこの部分がどう訳されているかに注目してください。

1808年:言葉は神[a god」であった」ニューカム大主教の新翻訳に準拠した、新約聖書改訂版
1928年:「言葉は神性を備えた存在であった。」百年聖書、モーリスゴル訳
1935年:「言葉は神性を備えていた。」聖書−アメリカ訳、J.M.P.スミスとE.J.グッドスピード共訳
1950年:「言葉は神「a god」であった。」新世界訳
1958年:「言葉は神「a God」であった。」新約聖書、ジェームズLトマネク訳1975年:「言葉は、神「a god」(すなわち神性を備えた者)であった。」ヨハネ福音書、ジークフリートシュルツ訳
1978年:「ロゴスは、神のような者であった。」ヨハネ福音書、ヨハネスシュナイダー訳


(A)ジェームズ王欽定訳では、「言葉は神であった。」と訳されています。しかし、このことは他の訳においても変わりがないようです。

1982年:新ジェームズ王欽定訳「言葉は神であった。」
1890年:ダービー訳聖書「言葉は神であった。」
1993年:現代ジェームズ王欽定訳「言葉は神であった。」
1988年:新アメリカ標準聖書「言葉は神であった。」
1989年:新改訂標準訳「言葉は神であった。」
1973年:改訂標準訳「言葉は神であった。」
1912年:ウェイマス新約聖書「言葉は神であった。」
1989年:ヤング逐語訳「言葉は神であった。」
1964年:基本英語聖書「言葉は神であった。」

その他、グリーン逐語訳も、新国際訳も、「言葉は神であった。」と訳しています。これらの「神」はすべて「God」です。

 エホバの証人の方が「冠詞がついていないのは、神を表しているのではなく、何か『神性を備えた者(→神のような方→神ではない)』を表しているからだ」とよく言われます。たしかに、冠詞を付けないことによって、神的性質を強調していると言うことはできます。(注1)

 しかし、「神性を備えた者イコール神ではない」と簡単に結論できません。むしろ、「神性を備えた者イコール神である」と結論する方が自然でしょう。

 神の性質を持っているとは、例えば、全知性、全能性でしょう。そういった性質は普通の人間は備えていません。そのような性質を備えた者を神と言うのではないでしょうか。

 Dana and Mantey は A Manual Grammer of New Testament において、ヨハネ1・1について、「神性を備えているからこそ、ことばは神である」と言えると述べています。(注2)

 このように、神性を強調する無冠詞用法から、即、「キリストは神ではなかった」とは結論できないのです。





  (注1) Dana and mantey の A Manual Grammer of New Testament (Mcmillan Company, Toronto, Canada)を見ますと、冠詞をつけない場合について次のように述べられています(p149-150)。
 事物の同一性(アイデンティティ)を強調する場合、冠詞をつけ、質的側面を強調する場合、冠詞を付けない。
 つまり、冠詞を付けないと、名詞の性質面が強調される、と。

(注2)「(ヨハネ1・1において、)Προs του θεου (神と共におられ)は、キリストの、神の人格との交わりを表し、θεοs ηυ ο λογοs (ことばは神であった)は、神の性質の実体への参加を強調している。」(p140)




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