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ことばは神ではないのか?(その2)



(Q) ヨハネ1章1節には、テオス(神)というギリシャ語の名詞が2回出てきます。最初に出てくる語は全能の神を指しており、「言葉」はその方と共におり(つまり、言葉「ロゴス」は神の「テオスの変化形」と共におり)ました。この最初のテオスの前には、トン「英語ではthe」というギリシャ語の定冠詞の変化形が付いており、この定冠詞は別個の実体、この場合には全能の神を指しています。(つまり、言葉は「その」神と共におりました。)

 一方、ヨハネ1章1節の二番目のテオスの前には冠詞がありません。ですから、直訳すれば、「言葉は神「god」であった」となるでしょう。ところが、この二番目のテオス(叙述名詞)を「神性を備えた」、「神のような」、あるいは「神[a god」というふに訳出している多くの翻訳を見てきました。どんな権威に基づいて、そのように訳されているのでしょうか。コイネーギリシャ語には定冠詞(英語のthe)がありましたが、不定冠詞(英語のa)がありませんでした。ですから、叙述名詞の前に定冠詞が付いていない場合、その名詞の意味はあいまいで、分脈によって左右されることがあります。

 「聖書文献ジャーナル」は、「無冠詞の述語が動詞に先行している表現は主として限定詞的意味を持つ」と述べています。これは同ジャーナルが述べる通り、ロゴスを一種の神になぞらえ得ることを示しています。同ジャーナルはまた、ヨハネ1章1節に関し、「述語の持つ限定詞的働きは極めて顕著であるゆえに、その名詞「テオス」を特定されたものとみなすことはできない」と述べています。それで、ヨハネ1章1節は「言葉」の性質、つまりこの方は全能の神ではなく、「神性を備えた」方、「神のような」方、「神[a god」であられたことを強調しています。このことは、神の代弁者としての役割の点で、ここで「言葉」と呼ばれているイエスが、ご自分の上位者であられる全能の神により地に遣わされた従順な従 属者であられることを示している、聖書の他の箇所と調和しています。



(A)ギリシャ語の場合、単語そのものが限定的な意味を強く持っていますので、冠詞は、英語のような限定的な働きを越えた働きを持っています。それは、「同一性」の強調です。「限定」だけではなく「対照」の意味を強く持つのです(ホーマー)。つまり、ものごとを他から浮き上がらせる、スポットライトを当てる働きが冠詞にはあります。

 ですから、マタイ2・3の、ο βασιλειυs Ηρωδηs(the King Herod)という句は、ヘロデ王を浮き上がらせているわけです。ヘロデ王にスポットライトを当てて、「他のだれでもなく、まさにヘロデ王こそが・・・」というふうに強調されているわけです。

 また、ルカ1・5の、εν ταιs ημεραιs Ηρωδου βασιλεωs(in the days of king Herod: ταιs=the)において、ταιs ημεραιs(the days)は、「他でもなく、まさにヘロデ王の時代」という意味になります。

 それに対して、使徒25・26の、βασιλευ Αγριππα(Agrippa, a king)は、冠詞がついていないので、βασιλευ(king)は、Αγριππαを限定する(定義する)働きをしているだけで、「王なるアグリッパよ」という意味しか有りません。(βασιλευ Αγριππα に冠詞がつけば、「他でもないアグリッパ王よ」という意味になったでしょう。)

 使徒7・30において、του ορουs Σιυα(the mount Sinai)には、冠詞がついていますから、他の山と区別され、「他でもないシナイ山」という意味になりますが、ガラテヤ4・24のορουs Σιυαは冠詞がついていないので、「シナイ山の性質」が強調されています。つまりこの言葉は、文脈と合わせて、「シナイ山に象徴される契約」を示していると考えることができます。

 このように、冠詞がある場合は、名詞を他から「浮かび上がらせ」、冠詞がない場合は、名詞の性質を強調する作用があるわけですから、このヨハネ1・1における、ο θεοs と θεοs の違いも明らかです。

 ο θεοs は、「他でもないあの聖書の神」という意味です。

 これに対して、θεοs は、神の性質が強調されているので、「神の性質を持つ者」という意味になります。

 しかし、ここで、エホバの証人の方が主張されるように、「神の性質を持つ者」→「神ではない」と飛躍することはできません。なぜならば、先のアグリッパ王の例において、「βασιλευ Αγριππαが無冠詞なので、王の性質が強調されている。つまり、アグリッパは王の性質を持つのだ。ということは、アグリッパは王ではないということになる」と結論できないからです。

 つまり、図式化すると、

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 無冠詞のθεοs→神の性質を強調→神の性質を持つ者→ことばは神ではない


 無冠詞のβασιλευ→王の性質を強調→王の性質を持つ者→アグリッパは王ではない

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 この図からも、「ことばは神の性質を持つ者であるから、神ではない」という論の立て方に無理があると分かると思います。






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