神の国について
キリスト教の最終目的は神の国の完成である。
しかし、これは、よく映画などで描き出されるような「お花畑が限りなく広がる異次元の楽園」などではない。
「全世界に出ていって、あらゆる国民を私の弟子とせよ。バプテスマを授け、私があなたがたに命じたすべての教えを守り行うように教えよ。」という昇天時のイエス・キリストの教えを実行し、きわめて高いレベルにおいて「御心が天で行われるように、地上でも行われるように」なることが、神の国の完成である。
すなわち、第1義的に、神の国とは、地上的なものなのである。
もし、神の国が天上的なものでしかないならば、イエスは、けっして「御心が天で行われるように、地上でも行われるように」とは言わなかったはずである。
そもそも、アダムは、神の命令を完全に守り、神の御心にかなった文明を建設することによって、永遠の生命と、永遠の報酬を受け取れるはずであった。しかし、堕落によって、彼は失敗者となり、それゆえ、神からの報酬を受け取ることができなくなってしまった。
失敗者アダムに代わって登場したのがイエス・キリストである。イエス・キリストは神の命令を完全に守り、永遠の生命と永遠の報酬を受け取る資格を得た。
イエス・キリストを信じる者は、だれでも、このような生命と報酬を受けることができるのである。
イエス・キリストの体なる教会(エクレシア:クリスチャンの集団)は、神の国をこの地上において発展させ、「あらゆる敵が足台となるまで」サタンと戦う。
歴史の終わりに、イエス・キリストは、完成された神の国を父に献上される。
「そして終わりがきます。その時、キリストは、御国を父なる神にお渡しになり、あらゆる主権、権威、権力を従わせる。」(第1コリント15・24)
この時、この世全体とクリスチャンの体が、霊的な体として復活し、永遠の生命と永遠の世界に移行するのである。
「血肉の体では、神の国を相続することはできない。朽ちるものでは、朽ちないものを相続できない。」(第1コリント15・50)(*)
(*)神の創造の目的は、朽ちるものではなく、朽ちない完成体を作ることであった。
すなわち、われわれが現在暮らしているこの朽ちる世界は、あくまでも一時的なものでしかなく、神の最終目的ではなかった。
アダムとその子孫が神とともに住み、永遠に神の創造を共に喜ぶことが創造の目的であった。
アダムは、この被造世界支配に失敗した。それゆえ、アダムから生まれるアダム族の人々は、失敗者とみなされる。
キリストは、アダム族に属するのではなく、処女降誕により、まったく新しい肉体を与えられて地上にやって来た新人類である。彼は、完全に律法を守り、神から合格者とみなされた。それゆえ、キリスト族に属する人々(信仰によってキリストとつながれた人々:キリストと一体である象徴が聖餐のパンと葡萄酒である)は、キリストと共に被造物を管理する責任があり、被造世界を神の御心にしたがって完成し、それを献上する責任がある。この責任をまっとうしたら、神は世界を更新され、永遠の世界が到来する。永遠の世界は、神がキリスト族に与えられる褒美である。この時に、神の創造の目的が達成されるのである。