スポーツセンター、国営企業など
>こんな事を言うこと自体、異民族支配を受けた
>ことのない国のおめでたさです。
たしかに、今アメリカは、異民族の坩堝と化しているということです。
つまり、アメリカという統一体をなさなくなるほどに、混沌化してしまった。
ヒスパニックやアジア人の比重が高くなって、建国当時の理念なんて吹っ飛んでしまった。
彼らは、独自の文化を持っている。そして、その文化には、相当おかしなものがある。
平気で犯罪を犯す。英語を話さない。
アメリカは、英語とキリスト教によって統一を保ってきた国です。だから、英語が話せないというのは致命的であった。私もアメリカで暮らして、このことを痛切に感じました。彼らは、外国人だから英語が話せないのは仕方ないとは考えません。話せない人間はバカだ、といわんばかりです。
日本人が外人に対して、わざわざ英語をつかって一生懸命意思を伝えようと努力する態度は、アメリカでは見られません。こうしないと、低い方に基準があってしまう。
だから、早く一人前になれよ、という態度で、万事アメリカ人は自分の身を低くするなんてことはないように感じました。
異民族を受け入れるのは、非常に危険が多い。高いものを持ち込んでくれれば国際化でしょうけど、低いものがどんどん入ってくる。それが、問題なのではないでしょうか。
こんなことを書くと、文化相対主義者から抗議のメールが来るでしょうけど。
文化ってのは高低があるんでしょう。ないなんて主張するのは、現実を見ない空想ではないでしょうか。
私は、植民地というものがあながち間違ったものではないと考えています。というのは、イギリスなどキリスト教国が植民化する前の、アフリカや南米やアジアは、どうしようもないレベルだった。
若い女性や、捕虜をいけにえに生き埋めにしたり、火の中に放り込んだり、生きたまま心臓をえぐり出したり、そんなことはごく当然のこととして行われていた。
結局、文明のない所には文明を持ち込む方がよいのであって、それを、侵略だなんて考えるのは、現実を知らないからでしょう。
ローマだって、キリスト教の入る前は、皇帝が、女性を吊して、腹を割いて、腸占いをしていたってんですから。
だいたい、貧乏人が施しを受けることを当然のごとく考えるイスラム教の国民が、どうして勤勉によって富を蓄積しようなんて考えるでしょうか。聖書は、「働きたくない者は、食べてはならない。」と教えています。この原則が徹底しないと、寄生的貧困者の天国ができる。ソ連にしても、スウェーデンにしても、イランにしても、日本の福祉制度にしても、働きたくない者に権利を与えたら国が滅びるのです。税金で40〜70パーセントももっていかれたら、正直者がバカを見ることになります。スウェーデンなんかじゃ、仕事の欠勤率が高いので、1人に対して2、3人交替要員を確保しなきゃならないって聞いたことがあります。
植民地政策が間違っていたのは、愚民化政策でした。独立者を育てるという発想があれば、その民族は自分で仕事をして、自立できるようになります。しかし、植民国は、ただ支配しようとした。いつまでも子どもの状態にしておけば、依存関係を保てると考えた。これが、イギリスが自分の首をしめる結果となった。結局、この点においては、彼らも野蛮人だったわけで…。
文明が発達していない地域の国民が大量に入国することは、非常に危険です。日本の労働倫理、犯罪率の低さ、こういった、日本の良い面は、このような移民によって壊されていく。
だから、基準とか理念とかがない国は、滅亡するしかない。聖書には、「幻がない民は滅びる。」とあります。原語から見ると、幻とは、法です。きちんとした法がなければ、倫理が瓦解したり、法秩序が崩壊するのは時間の問題です。だから、進化論は、危険だと思います。進化論は、偶然を究極にしますから、結局、生き残るべきなのは、強者だということになってしまう。善とか悪とかそんなものは吹っ飛んでしまう。まだ、倫理とか秩序が存在しているうちはいいのですが、進化論の理論が社会において徹底されてくると、当然、弱肉強食の世界が登場する。
理論は、必ず実を結ぶわけです。今日の日本の教育は、国家を滅亡させる教育です。
こんな教育をしていたら、子どもがバカになるのは当然で、だから、早く手を打たないと取り返しがつかないことになる。昨今、どうしてこんな日本にとか、どうしてこんなアメリカに、っていう声が聞こえてくるようになりましたが、偽宗教を信じたら、それに見合った結果は出るのは当然で、驚くべきことじゃない。
日教組が道徳教育は、戦前の全体主義を復活させる、なんてやったもんだから、道徳を教えられないで育った大人が増えた。そして、子どもを産むようになった。その子どもが援助交際をするようになった。当然ですね。
どの国家でも、その国家を維持するために必要な倫理というものを教えなければならない。クラブでもそうです。もし野球部なんかで、先輩後輩の区別がなくなれば、上級生の言うことをきかない下級生が出てくる。そうすると、全体にしまりがなくなって、試合に負ける。だから、上級生の言うことをよく聞かないやつは、制裁を加える、というある種の倫理が生まれるわけです。これは、集団を維持する上で当然なのです。
会社でも、仕事をいい加減にやる社員を放置すれば、その影響は回りにとって甚大です。ちょっとしたミスで、金利が500万飛んだなんてことも出てくる。だから、厳しく書類をチェックさせたりする。昔はそろばんの玉がはじける程ブン殴られたという話も聞きました。
>働いたこともないセンセイ方が、
>「日本式経営は、世界一だ」なんぞとおっしゃる。
大学はキリスト教の産物なんで、もともと神学が中心だったのですが、近代の大学は、神を否定したために、キリスト教の統一的世界を失った。だから、university ではなく、multiversity になった。もともと uni (統一性)と verse (多様性)が調和したのが大学だったのですが、多様性(multi-verse)だけになってしまった。
学説を批判するための統一的普遍的原理なんぞはもはや存在しない。だから、学問は迷走することになる。迷走する学問をやっている大学人は、現実の仕事の世界を知らないもんだから、おっしゃるように、経済学なんて教えていても、空に浮かんだパイのようなもので、少しも役に立たない。
もちろん、学問というものに価値はある。しかし、現実を解釈して、現実に適切に対応できなければ、学問の価値はなくなる。マルクス経済学とかケインズとか、破産するのが目に見えている理論。ケインズは、この経済学を適用すれば、「結局我々は滅びるのである。」と実際に言ったのです。
こういった、実効性のない学問や宗教によって汚染された人間が増えたら、国家がおかしくなるのは当然。ある所で、ちょっと耳にした会話が興味深かった。
ゴルフをしにやってきた会社員風の二人。「今の大蔵省の役人ってのは、東大で社会主義やったんだよ。教授が社会主義者でさ。だから、こんなことやってんだよ。」
これは、インドなど、イギリスを宗主国とするかつて植民地だった国においても同様だそうで。インドのエリートは、ケンブリッジやオクスフォードなんぞに留学する。そこの教授は、社会主義者で、そのエリートがお国に帰って、その教授のクソ理論を実践に移す。だから、とんでもない政治・経済になる。
だから、学者は、一度、経済が生で動いている社会に身を置いて、研鑽を積む必要があるんじゃないでしょうか。牧師にしても、高校の教師にしても、霞ヶ関のお偉方にしても、実社会がどのように動いているのか、そして、実際に営業なんぞをやって、商店のおじさん、おばさんと話をして、現実とはどんなものか、肌で学んだ方がよいでしょう。そうすれば、もっとましなことをやったり、行ったりできるでしょう。金を稼ぐことがどんなに大変かが分かれば、安易に税金を上げればなんとかなるなんて発想はしなくなるでしょう。
>本心は英米に勝てないと思ったが、そういえば失脚してしまう
>ので回りと一緒にみんなで旗を振っているうちにああなった。
>そんなところではないでしょうか。
こういう体質って日本にはありますね。橋本さんにしても、前の村山さんにしても、政治家集団の調整役でしかない。もし総理になってうれしいんだったら、名の残るようなことやったらどうでしょうか。結局、国民は、そんな体質に愛想がつきてるんでしょう。今、フジモリあたりが日本に現れたら、けっこう人気でると思う。
サッチャーがなぜ世界で評価されているかっていうと、大所高所から、イギリスのためを思って、批判をものともせずに自分の信念を貫いたからじゃないでしょうか。彼女は、どうみても人気取りではない。橋本首相は人気を気にしているわりに、バカにされている。
村山さんも、総理になったときに、ある人の応援演説で、「私はこの人のおかげで総理になれました。」って言ったってんですから、日本の政治家のレベルが分かりますね。
この日本の民主主義が生き残れるかどうかっていう危急の時に、総理になれてうれしい、なんて考えている感覚がどうかしている。
結局、現在の日本人は安定こそすべてなんでしょう。安定を求める者は、安定を失うんで。そういった愚かさは女性の特質かと思ったら、男までがそうなってしまった。こういった男が増えると、今度は女が宰相になったりする。つまり、男が大所高所から自分の身を捨てることができなくなると、女が権力にぎるようになる。
だいたい、男の毛深いのが人気がないなんてのが、異常でしょう。男が男らしくないほうがいいってのは、源氏物語の時代に逆行しているわけです。あれは、ポルノ小説だって言った人がいましたが、ごもっとも。
あの第二次大戦当時は、それでも男がいました。今は、女に教育まかせているから、考えることが台所感覚の子どもばかり。リスクを冒すことができなければ、何も大したことできないってのが理解できない。
最近の子ども見てるとかわいそうになってくる。人生ってこんなにつまらないものなのか、って。そうでしょう。私のころは、何かわくわくさせてくれる雰囲気が社会全体にあった。これから何か起こるんじゃないか、ってね。大鵬、柏戸、長島、王、とにかくスターがいて、そのスターが、イチローなんか百人あわせたぐらい魅力があった。
そんなのが、これでもか、これでもか、って出てきた。
とにかく、時代が貧困ですね。金はあるけど、ハートがない。こういった雰囲気は、1980年に始まったように思います。私が大学に入った時と、出た時では、まったく雰囲気が違った。入ったときは、まだ泥臭い人が多かった。8年間も学生運動やっている人とか、機動隊なんかが学校にやってきたり。それでも、正義とは何か、なんて叫んでいた健全さがまだあった。今は、レジャーランドでしょう。健全さという点では、学園紛争やっているほうが、まだ上でしょう。少なくとも、ボクの回りには、ウェーバーがどうしたとか、マルクスが、とか、丸山、大塚がどうしたといった会話があった。
どこかで、福田とか大平あたりの政治家には、まだ書生らしさが残っていた。大平は、自分の尊敬する経済学者の全集を出したなんて、聞いたことがあります。今の政治家にそんな人がいるでしょうか。なんか、それを言ってはおしまいよ、ってな雰囲気を醸し出している。かつてのフォーク歌手は、話がうまい人が多くて、コンサートでは冗談が面白かった。そして、けっして本音の部分でがなり立てることはなかった。こういった、アソビの部分が私にとってあこがれでしたね。私の前の世代の人々には、そういった包容力が感じられた。しかし、今日のロックとか、コンサートは、余裕がない。
歌詞の内容がストレートすぎる。
かつては、何か人間関係でも、男女間でも、やさしさというのが根底にあって、それでみんなが安心していたというイメージがあります。でも、今日は、あまりにも人々が即物的でしょう。いじめといっても、昔もあったけど、それでも死に追いやるようないじめ方はしなかった。加減というものを知っていたんですね。しかし、最近の高校生を見ると、そういった、人の踏み込んではいけない部分を土足で踏み込むような残酷なところがある。豊かになって、挫折を知らないからなのでしょうか。
>公務員の志願動機なんて、如何にきれい事
>言っても結局「安定」です
公務員ていうのは、夢の世界の住民なんですね。公務員が悪いってんじゃないです。公務員は尊い職業です。ただ、職分は、別のところにあるのではないかと。
一般の社会は、毎月、だまっていても金がころがりこんでくる所ではない。生きて戦わなければ金は入ってこない。
だから、公務員が事業なんぞやってはいけない。企業に口だしてはならない。国有企業は、絶対に作ってはならない。絶対に赤字になる。市営や都営の地下鉄なんか、黒字になれば奇跡でしょう。コスト感覚がないのにどうして黒字出せますか。
テレビで、国の援助で、昆布がつくブロックを海底に沈めるっていうニュースやっていました。市から派遣された業者が、ブロックを沈めるのですが、そばで見ていた漁民が「あんな所に沈めたって昆布はつかねえ。」って嘆いていました。
お上が昆布のブロック沈めちゃだめなんです。漁民にやらせなきゃ。
それから、市のスポーツセンターってやつ。我々の血税を使って建てたのに、勤労者が使いづらく作ってある。ウェートトレーニングをしに行ったら、まず「講習」を受けてくださいって。その講習の予約者が、けっこういて、講習を受けられるのが、1カ月後だと。講習が終わって、何日かたたないと練習させてもらえないと。
一般のスポーツクラブに入ったら、即練習できますよ。競争力まるでなし。こんなことやっても、自分の腹は痛くない。人がいなくても、きちんと給料はもらえる。
だから、こういうスポーツセンターや、バカみたいにでかい市庁舎なんてのに、税金つかうんだったら、民間のスポーツクラブの法人税安くして、利用者によりよいサービスを提供させた方がずっといい。
自分の腹を痛めて産んだ子はかわいいのと同じように、自分が出資した会社は、自分の一部なんですよ。だから、その会社が倒産しないように、そして、繁栄するように、細心の注意を払う。これが企業の経営者でしょう。だから、彼らは、賢く金を使うことができる。だけど、税金てのは、自分で集めた金じゃないんだから、どう使おうが痛くも痒くもない。
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