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社会理論が欠落したキリスト教



 今日のキリスト教は、社会理論が欠落しています。それは、体制側にとっては非常に都合がよいのです。

 カルヴァン主義は、神の主権を設定して、その神が委託した権力代行者に、様々な分野を独立して管理させるという契約思想があります。

 すると、今日の我々の支配宗教であるヒューマニズムは、カルヴァン主義によって別の主権者を立てられ、その主権者に忠実に従う権力代行者が、彼らの定めた代行者とは別に存在することになるので、ライバルであると認識するようになります。

 ですから、ヒューマニズムにとって、カルヴァン主義キリスト教以外のキリスト教は、ライバルではないのです。そして、ヒューマニズムは、カルヴァン主義を迫害するようになります。

 ユダヤ教とカルヴァン主義は、独自の非妥協的な社会思想を持っていますので、ヒューマニズム支配体制にとって、きわめて有害なのです。

 もちろん、だからといって、他のキリスト教が、まったく社会的脅威とならないか、というとそうではありません。なぜならば、他のキリスト教も、最終目標を神の統治に置いていますから、その主張している所を徹底させれば、結局はヒューマニズム体制と対立せざるを得なくなります。

 ただし、今日のキリスト教は、その問題に触れたがらないのです。なぜならば、彼らは迫害を恐れているのです。もし、「キリストだけが主である」と毎日曜日、教会で彼らが主張しているところを、政治に適用したらどうなるでしょうか。

 「キリストは、政治においても主である。」と考え、それを行動に移せばどうなるでしょうか。(*)今日のヒューマニズム体制から敵視されるのは火を見るよりも明らかです。だから、彼らは、その点に問題を移すと論点をぼかすのです。

 こういう意味で、このようなキリスト教は、体制のおかかえ宗教の一つでしかないのです。これは、厳密な意味でキリスト教ではありません。キリストは「私は地上に火を投げ込むために来た。」と言いました。「キリストは主権者である」ということは、既存の社会の主権者と対立せざるを得ない、だから、火が燃えることになります。

 このようなキリスト教は、人にとってアクセサリーでしかありません。不都合ならば、引っ込めればよいのです。

 聖書が提示し、キリストが行えと主張されたキリスト教とは、人のいのちそのものであって、装飾品ではありません。

 ですから、ローマにおいてキリストかカエサルか、と問われた時に、クリスチャンは、ライオンに食べられることを選択したのです。

(*)ただし、誤解してはならないのは、聖書はけっして暴力を用いて権力を覆すことを教えてはいません。権力を獲得する唯一の方法は、「へりくだり」です。

 神の御言葉を忠実に守り、神と人に仕えることによって、その影響力を拡大していく方法だけが本当の支配の方法です。

 「へりくだる者は幸いである。その人は地を相続するからである。」




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