愛とは、どこまでも人を追い求めて行くことである。
こんなことを言った「なんとかフロム」というヒューマニストがいましたが、キリストは、「馬と鹿を追いかけるな」と言われました。
「あなたを受け入れようとせず、あなたの言葉を聞こうとしない者には、その人の家や町を出ていくときに、あなたの足からちりを払い落としなさい。」(マタイ10・14)
パウロも、
「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。」(テトス3・10−11)
「自分で悪いと知りながら罪を犯している」人々、つまり、聖書で言われる「愚か者」は相手にするな、と言われています。
世間の人々に誤解されている点ですが、神に従う人は、きわめてドライです。彼らは、神が追い求めるなと命じておられる人々をけっして追いかけません。神が示してくださった時点で切ります。
もちろん、「赦しを無限に与えなさい」と命令されている箇所もあります。しかし、それは、「心の底から悔い改めて来る人々に対して」だけです。
自分から「確信を持って罪を犯している人々に対して」も寛容であれなどとは聖書に書かれていないのです。
この区別は極めて重要です。
エジプトのパロは、頑固にも、イスラエルを去らせようとしませんでした。はじめの間は、「パロは心を頑なにして、・・・」と言われていますが、ある時から、「神がパロの心を頑なにして、・・・」と変わっています。
つまり、人は、あくまでも真理に逆らい続けると、ある時を境に、神がその人の心を頑なにされるのです。つまり、神の刑罰の領域に入るのです。
頑固に真理に逆らい続けると、人は、絶対に戻ることのできない領域に入ります。
その領域に入ると、悔い改めることはできません。もっぱら永遠の火を待つだけの状態になります。その人を待っているのは、永遠の刑罰です。
「真理の知識を受けた後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」(ヘブル10・26−27)
そうなると、他の人は、誰も手が出せなくなります。
伝道者が、神の御言葉を取り次いでいるのに、頑固にもそれを拒み、それを軽蔑し、それに逆らい続けると、ある時から、どうしても聖書が信じられなくなり、神に祈ることができなくなる瞬間が訪れます。
これが、永遠の刑罰に入る入り口です。つまり、悔い改めができなくなる瞬間なのです。神がその人の心を完全に閉ざして、頑固にしてしまう瞬間なのです。
植村正久が国木田独歩の病床を訪れて、最期の悔い改めを求めた時に、彼はこう答えました。
「先生、もう悔い改めることができません。」
どんなに、クリスチャンであると自称していても、神の御言葉を信仰せず、進化論を主張し、大胆にも、聖書に従う必要がない領域がこの世の中に存在すると主張する無律法主義者は、ある時を境にキリストを告白できなくなります。神がその頑固な魂を、その心の欲望のままに放置されたからです。
だから、伝道者にとって、このような人々を追いかけることは無益であり、時間の無駄なのです。
この手の人々は、どのようにしても、悔い改めることを望まず、けっして信仰を得ようとはしません。彼らの口から出てくる言葉は、反キリストの言葉だけです。彼らは、伝道者や牧師の言うことを聞かず、自分勝手に生きようとします。そして、最後に自殺してしまうのです。
クリスチャンに対する「いちゃもん」は、キリストに対する「いちゃもん」なのです(ヨハネ15・20)。彼らは、クリスチャンだけを非難しているつもりでしょうが、心の中に神に対する憎しみがあるので、それがクリスチャンに対して出てくるのです。「人は心に満ちているものを話す。」のです。
彼らはキリストを憎んでおり、キリストに従おうとしません。だから、キリストに従っている者を憎むのです。これは、サタンの心であり、ここから、彼らがサタンの子であることが明らかになります。
サタンの子は、サタンの子として生まれてきたのです。はじめはサタンの子であっても、後で神の子になる人もいます。しかし、それは、「知らずに行っている」場合だけです。パウロは最初、クリスチャンを迫害していましたが、それは、「知らずに行っていた」からでした。彼は、クリスチャンを迫害することが神への奉仕だと考えていました。それゆえ、彼は赦されたのです。
「私は以前、神を汚す者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」(第1テモテ1・13)
パウロは知らずに罪を犯していました。だから赦される余地も残されていました。しかし、もし彼が、神を知りながら、自分が行っていることが悪であると知りながらクリスチャンを迫害していたら、赦されなかったことでしょう。
このような確信犯は、絶対に赦されません。神を汚すこと、神の教え、聖書、律法を否定すること、クリスチャンを迫害すること、神の教えに公然と挑戦すること、これらのことは、もし知らないで行っていれば赦されることもあるでしょうが、聖書の教えが正しいと知りながら、しかも、故意に逆らうならば、絶対に赦されないのです。
彼はサタンから生まれた子であり、サタンの望むことを行い、発言します。彼らは、神に対して敵対することによって、人間の反逆心を証明します。そして、クリスチャンを迫害し、背景画として、クリスチャンの義を浮き彫りにするのです。あのユダの罪がキリストの義を引き立たせたように。
彼らの人生は、永遠の刑罰を受けるために存在します。永遠の刑罰の中でうめき苦しむ時に、彼らは神の義を証明します。彼らは「御怒りを受けるべき子ら」であり、「滅ぼされるべき怒りの器」(ローマ9・22)として生まれてきたのです。
もし彼らが悔い改めるならば、救いもあるでしょう。しかし、悔い改めることなく、なおも神の真理に敵対し続けるならば、クリスチャンは一切彼らを相手にできません。彼らを追いかけることは時間の無駄です。クリスチャンは、彼らを神の御手の裁きに委ねます。