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処女降誕について





(Q)キリストの処女降誕を記した聖書の箇所は、ヘブライ語をギリシャ語に翻訳するときのミスであると現代の聖書研究者は述べているそうで、これは常識となっているそうです。つまり、あの箇所は、「処女」ではなく、「若い女」としか記述していないそうです。

(A)問題の箇所は、旧約聖書のイザヤ書7・14と新約聖書マタイ1・23です。

見よ。処女がみごもっている。そして男の子を生み、その名を「インマヌエル」と名づける。(イザヤ7・14)

見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(マタイ1・23)

さて、マタイ1・23のギリシャ語の「παρθευοs」は、イザヤ7・14のヘブライ語「haユalmah」の翻訳です。ご指摘のとおり、ヘブライ語のこの言葉は、「その若い女」という意味でとくに処女を意味する言葉ではありません。辞書には、「若い女性、性的に成熟した女性、処女、結婚したての女性」とあります。ですから、マタイ1・23とイザヤ7・14はどちらも、「見よ。若い女性がみごもっている。」と訳すことができます。

言葉上では、マリアが処女であったことを証明することはできません。しかし、ルカの福音書では、御使いがマリアの前に現れて、「ご覧なさい。あなたはみごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」と言ったときに、彼女は、こう答えています。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1・31−34)

これに対して、御使いは、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。・・・神にとって不可能なことは一つもありません。」(35−36)と述べています。

また、マタイ1章では、まだ同居していないうちに、婚約者マリアが身重になったことを知ったヨセフが、マリアを内密に去らせようとした、と述べられています。 そして、彼に主の御使いが現れて、次のように告げます。

「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリアを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(20)

ここにおいて、マタイははっきりとイエスが聖霊によって生まれ、普通の結婚によるものではないことが明らかにしています。

さらに、マリアの処女降誕を印象づけるように次のことが述べられています。

「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」(マタイ1・24)

このように、新約聖書は、明らかにイエスの処女降誕を主張しているのです。(*)


(*)なぜ処女降誕でなければならないのでしょうか。

メシアの誕生において、なぜ処女降誕という方法がとられたのでしょうか。それは、イエスの超人性を示し、人々を驚かせて、圧倒するためではありません。これは、聖書の救済観と大きな関係があるのです。

もし、イエスが普通の人間の子供として生まれたならば、イエスは、聖書が示すとおりに原罪を背負うことになります。

聖書は、くりかえし、アダムの血肉を相続する者は、生まれながらに失格者であり、死ぬべき運命(つまり、肉体的死と、霊魂の死)にあると述べています。

「私たちもみな、・・・生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2・3)

「アダムにあってすべての人が死んでいる・・・」(第1コリント15・22)

「第一の人(アダム)は地から出て、土で造られた者である・・・。土で造られた者は、みな、この土で造られた者に似ている。・・・血肉のからだは神の国を相続ない。」(47−50)

アダムは神の契約を破り、それゆえ、アダム族(人類)全体が死を相続することになりました。

ですから、人を救済するためには、どうしても、アダムの子孫ではない人間が現れなければならないのです。(自分が罪を負っているものが、他人の身代わりに死ぬことはできません。彼は自分の罪の代価を払って死ななければならないのです。)それが、第二のアダム キリストです。

「第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。」(47)

第一のアダムは、神の試験に合格できませんでしたが、第二のアダムは、合格しました。それゆえ、第二のアダムの門下に入る人々は、試験に合格した者と認められるのです。

人を救うメシアであるためには、イエスは、まず、アダムの血肉を相続せず、全く新しい人類の祖先にならなければなりません。そのために彼は新しい肉体を持たなければなりませんでした。それには、処女降誕以外には方法はないのです。聖霊は、まったく新しい人類の種を、マリアの胎の中に置かれました。

私たちは全員アダムの子孫です。それゆえ、彼が神と結んだ契約の支配下にいます(ホセア6・7)。しかし、イエス・キリストが自分の救い主であり、十字架上の刑罰が自分のためであったと信じるならば、キリストの子孫となることができます。新人類のメンバーとなれるのです。そして、完全に契約を守った者とみなされるのです。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8・1)






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