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マタイ24章の来臨預言について(1)



(Q)キリストの世代内にイエスが来られた事実があるでしょうか。 そして、その時、神による審判が起き、その結果、神の国が成就したのでしょうか。



(A)マタイ24章は、すでに掲示しましたように、イスラエルに対する審判の預言でした。

 イエスは、弟子たちが宮の崩壊について(24・1)、「いつこれらのことが起こるのでしょうか。」(3)と尋ねました。それに続いて、「あなたの来られる時や時代(του αιωνοs)の終わりにはどのようなしるしがありますか。」

 ここから明らかなのは、神殿の崩壊が起こる時が、キリストの来臨の時であるということであり、「時代」(*)の終わり(神殿と犠牲制度、契約の民イスラエルの終焉)だということです。

 この来臨は、再臨とは異なるものであることは明らかです。もし、神殿が、世界の終末に建っている神殿であるというなら別です。しかし、終末期に建っている神殿である証拠はどこにもありません。むしろ、ルカでは、この神殿が何を指しているかをはっきりと示しています。

 「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。・・・『先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どのような前兆があるのでしょう。』」(ルカ21・6)

 「あなたがたの見ているこれらの物」−つまり、弟子たちが目の前に見ている神殿について言っているのです。それが、崩壊するのはいつであり、それが起こるときには、どのような前兆があるのか、について、弟子たちがイエスに尋ねたのです。

 注解者たちは、次のように述べています。

「この言葉が語られた時点では、これほど信じがたい出来事はなかった。神殿は壮大で、豊かで、見事な建造物であった。神殿はイスラエルの誇りであり、国民は平和に暮らしていた。しかし、40年後にこのことはすべて実現したのだ。紀元70年に、ティトス率いるローマ軍がエルサレムを占領した。・・・ヨセフォスは、次のように記録している、ティトスは、『エルサレム全市と神殿をことごとく破壊せよ、との命令を下した。』・・・マイモニデスは、次のように記している。『ティトス軍の将軍、テレンティウス・ルフスは、鍬を使って神殿の土台を根元から覆した。』」(Barnes)

「この第一の質問は、もっぱら神殿の崩壊に関するものである。」(Gill)

 このように、神殿とは、紀元70年に崩壊したあのエルサレムの神殿のことを指しているのですから、弟子たちの神殿崩壊の前兆についての質問に対して、イエスが、語られたキリストの来臨の預言も、その時に成就したと見なければならないのです。

 また、前兆(しるし)を列挙した後で、イエスは、しめくくりとして、次のように語られます。

 「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」(34)

 先にも述べましたように、この時代(γενεα)とは、イエスの同世代を指しているので、キリストの来臨も、この世代内に起こったと考えなければならないのです。





 それでは、実際に、キリストはどのようにして来られたのでしょうか。

 それは、キリストの可視的来臨と考えることはできません。聖書において、主の到来は、かならずしも可視的ではありません。「主が来られる。」と述べられている旧約聖書の預言において、それは、国家や権威者に対する攻撃とそれらの崩壊を意味しています。

 例えば、紀元前8世紀に記されたミカ書の1章は、捕囚前のユダとイスラエルに対する審判の預言であり、再臨の預言ではありません(新聖書注解旧約第4巻、いのちのことば社、562ページ)。

   それにもかかわらず、主が来られると記しているのです。

「見よ。主は御住まいを出、降りてきて、地の高い所を踏まれる。」(1・3)

 これは、歴史上実現したのでしょうか。主は、実際に天から文字どおり降りてきて、地の高い所に足を置かれたのでしょうか。

 また、これも紀元前8世紀に活躍したホセアは、当時イスラエルに住んでいた人々の罪を裁くために、主が「国々の民」を集めると預言しました。

 「わたしは彼らを懲らしめようと思う。彼らが二つの不義のために捕らえられるとき、国々の民は集められて彼らを攻める。」(10・10)

 これは、アッシリア軍の多種族を意味します(鈴木 昌、新聖書注解旧約第4巻、493ページ)。

 続いて、ホセアは「主が来られる。」と預言します。

 「ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」(12)

 これは、主が目に見える形で天から降りてこられることを示しているのでしょうか。いいえ。ここで主の来臨は、アッシリア軍による侵略を意味しているのです。

 「あなたの要塞はみな打ち滅ぼされる。シャレマンがベテ・アレベルを踏みにじったように。その戦いの日には、母親が、その子どもたちの上で、八つ裂きにされた。イスラエルの家よ。あなたがたの悪があまりにもひどいので、わたしはこのようにあなたがたにも行う。イスラエルの王は夜明けに全く滅ぼされる。」(14ー15)

 これらから明らかなように、主の来臨預言を、神御自身の可視的な来臨と必ずしも解釈することはできない、ということです。

 同じように、マタイ24章におけるキリストの来臨も、キリストの可視的な来臨と考える必要はないのです。多くの注解者は、この来臨が、エルサレムの破壊を意味していると解釈しています。

 バーンズは、「エルサレムの破壊は、彼らの大きな罪を裁くために、キリストが来臨され、事を行われたことを示している。」(Barn’s Notes on NT, Kregel, p.116)と述べています。

 ギルは、次のように述べています。

 「この預言は、最後の審判について語っていると解釈してはならない。・・・というのは、これが、エルサレムの破壊の前に起こらねばならないからである。この預言は、御怒りと報いのために、主が、御民、イスラエル民族を打ち砕き、イスラエルの都、そして神殿を破壊する目的でやって来られることについて語っているのである。」(Gill, Notes in Online Bible ver.2.5.2, Ken Hamel Box 168, Oakhurst, NJ 07755)

 つまり、キリストの来臨は、ローマ軍によるエルサレム破壊という形で実現したのです。

 因みに、初期キリスト教の教父たちは、エルサレムの崩壊が、ダニエルの70週(ダニエル9章)の成就であると考えています。「荒らす憎むべき者」(マタイ21・15)も、ティトスが神殿の中にローマの旗を据えたことにおいて成就したと述べています(The Epistle of Barnabas 16:6; Clement of Alexandria, Miscellanies 1:21; Tertullian, Against the Jews 8; Origen, Matthew 24:15; Julius Africanus, Chronography; Eusebius, Demonstrations 8; Athanasius, Incarnation 40:1, Augustine, 199th epistle(G.Bahnsen and K. Gentry, House Divided, ICE, p279 からの転載))。マリー・スモールウッドによると、これは、軍旗であり、崇拝の対象とされていました(Mary E. Smallwood, The Jews Under Roman Rule (Leiden: E. J. Brill, 1976))。ヨセフォスは、次のように述べています。

「(ティトスの兵士たちは)旗を神殿の中に運び入れ、東の門の反対側にそれを据えた。そして、旗にいけにえを捧げた。」(Josephus, Antiquities of the Jews, 6:6:1)

   マタイ24章には、具体的に、キリストの来臨がどのようなものであるか、記されています。



(A)

「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくようにちょうどそのように来るのです。」(27)

 これは、キリストが円盤か何かに乗って、猛スピードで空を駆けめぐることを指しているのではありません。

 これを文字どおり解釈するならば、次の節の「死体のある所には、はげたかが集まります。」(28)も、「これは、再臨の時に、死体のある所にはげたかが集まることを指しているのだ」と解釈しなければならないはずです。

 しかし、これは、ナンセンスです。ほとんどの注解者が解釈しているように、この節は、「死体に群がるはげたかのように、生きていても、神の目には死んでしまったような霊的破産者の所には、裁きが必ず襲ってくるのだ。」という霊的意味にとらなければならないのです。

 「いなずま」は、キリストの審判が明瞭であることを象徴しています。

 キリストの来臨は、前節に記された偽キリストの現れ方と対照的に記されています。偽キリストの到来の方法は、荒野に現れたり、部屋に現れたり(25−26)、日常的です。しかし、それに対して、キリストの到来は、非日常的であり、特異な出来事として他とはっきりと識別できるものです(Foerster, Theological Wordbook of New Testament, vol. I , p. 505)。

 ルカにおいては、さらに明らかです。

 「人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても、行ってはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。・・・人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」(ルカ17・23−27)

 キリストの来臨は、非日常的・破局的であり、それを洪水と比べることができる、と言われているのです。人々が、平凡な日常生活を送っているときに、洪水が襲いました。それと同じようにキリストの来臨も、けっして日常的なものではなく、破局をもたらすものなのです。だから、「となりの部屋にいる」とか「荒野にいる」と誰かが言ってもついていってはならない。それは、けっしてキリストの来臨ではない。キリストが来られるのは、いなずまがひらめくように、人々が震え上がるような異常事、つまり破局的出来事なのだ、と言われているのです。



(B) 

 「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(29)

 これも、再臨の時に人工衛星が天から落ちてくることを示しているのではありません。

 これと同じ表現が、ヨエル書にあります。

 「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。」(2・10)

 「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」(2・31)

 使徒行伝において、ペテロは、このヨエルの預言がペンテコステの日に成就した、と述べています。

「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。・・・また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下には、地にしるしを示す。それは、血と火と立ちのぼる煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。』」(17−20)



 では、ペンテコステの日に、実際に血と火と立ちのぼる煙があったのでしょうか。太陽はやみとなり、月は血に変わったのでしょうか。聖書のどこにもこのような物理的現象が起こったと記されていません。そのような証拠を示す文書は存在しません。

 これは、文字どおり解釈すべきではなく、預言の型として理解しなければならないのです。旧約聖書の預言者は、このような型を用いて神の審判について描写しました。

 イザヤは、13・1、11において次のように述べています。

「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。・・・見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、血を荒れ廃らせ。罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。」

   エゼキエルはエジプトの王パロに対する宣告を述べます。

「あなたが滅び失せるとき、わたしは空をおおい、星を暗くし、太陽を雲で隠し、月に光を放たせない。わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地をやみでおおう。」(32・7−8)

 アモスは、イスラエルに対して次のように預言します。

「その日には、・・・わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、・・・」(8・9)

 ミカも、イスラエルに対して次のように預言します。

「太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。」(3・6)

 このように、聖書において、預言に特有の象徴的表現が頻繁に登場します。旧約聖書において、これらの出来事が文字どおり実現しなかったように、新約聖書において同様の表現が出てきた時も、同じように文字どおり実現することはないと考えなければならないのです。

 チルトンは、旧約聖書において、天体は支配を行う神の僕であると記されているので(創世記1・16−18)、太陽や月や星の機能停止は、支配者の権威の失墜を象徴していると考えることができる、と述べています(David Chilton, The Days of Vengence, Dominion Press, Tyler TX, pp. 196-197)。

 ですから、このマタイ24・29は、「イスラエルの支配が終焉し、彼らの権威が失墜する。」と解釈しなければならないのです。聖書は、聖書によって解釈しなければなりません。新聞を用いて聖書を解釈することは預言の私的解釈になります。

 エルサレムが陥落し、神殿が破壊され、様々な苦難が続いた後で、イスラエルは、その契約的特権を奪われます。彼らは、諸国民のリーダー的地位を失うのです。



(C)

「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。」(30)

これは、原語では、

και τοτε φανησεται το σημειον του υιου του ανθρωπου εν ουρανω(And then will appear the sign of the Son of Man in heaven)

となっています。εν ουρανω(in heaven)は、「現れる」を修飾する副詞句「天に」と解釈することもできますし、「人の子」を修飾する形容詞句として「天にいる」と解釈することもできます。つまり、

「そのとき、人の子が天にいるしるしが現れます。」(30前半)

と訳することができるのです。事実、キング・ジェームズ訳はこのように訳しています。



 29節のイスラエルの滅亡預言に続いて、「人の子が天にいるしるし」=人の子が天の王座について、天地の主権者となったことのしるしが現れます。

   これは、それに続く後半の箇所と関連しています。



(D)

「すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。」(30後半)

 この「天の雲に乗ってくる」という表現は、マルコにおいて次のように記されています。

 「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(14・62)

 これは、イエスが裁判の席で、大祭司の質問「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」(14・61)に答えて言われたものです。

 それに対して、大祭司は、自分の衣を引き裂いて、「これは冒涜だ。」と述べます。(63−64)

 なぜ、彼らは、このイエスの言葉を冒涜だと考えたのでしょうか。それは、「天の雲に乗って来る」という表現が、次のダニエル7・13に言及していることに気づいたからです(参照:Oepke, Theological Dictionary of NT, Eerdmans, vol. 4. p. 909)。

 「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

 イエスは、このマルコ14・62において、自分は、ダニエル7・13において預言された人の子であり、キリストなのだと宣言されたのです。

 それゆえ、同じように、マタイ24・30における「天の雲に乗る」という表現も、明らかにダニエル7・13の成就であるということが分かります。

 そして、「地上のあらゆる種族は、悲しみながら、・・・見る」という表現も、全世界の住民がキリストの来臨を悲しみながら見るというのではなく、次のゼカリヤ12・10−14の成就であると考えなければなりません。

 「彼ら(ダビデの家とエルサレムの住民)は、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう。この地はあの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。残りのすべての氏族はあの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。」

 というのは、「地上のあらゆる種族」における「種族」は原語ではφυλαιですが、これは、辞書によりますと、「族長ヤコブの12人の息子たちから出たすべての人々all the persons descended from the twelve sons of the patriarch Jacob (Greek-English Lexicon of the New Test. Baker, Grand Rapids, Michigan)」を指しているからです。つまり、ユダヤ人の諸氏族が人の子の来臨を見ると言っているのです。けっして、全世界の人々が見るわけではないのです。

 ある注解者は、次のように述べています。

 「そして、地上の諸種族が嘆くだろう。これは、ユダヤの地に住む人々を表す。・・・これは、最終審判のための来臨を指しているのではない。彼は天の雲に乗って来られる。そして、偉大な権力と栄光とを身にまとって来られる。しかし、この来臨は、御民の滅亡をもたらすためのものであり、最後のとどめを刺すためのものである。これは、彼らにとって暗闇であり、悲惨な取り扱いであった。とことん盲目であるならば別だが、もしそうでなければ、彼らは、神の御腕の力と、キリストの栄光を見ることができたであろう。キリストは、単なる人ではなかった。彼は、神の子に他ならなかった。ユダヤ人は、キリストをさげすみ、拒絶し、十字架に付けた。キリストは、異邦人の間において、もっと明瞭な、独特な方法で御国を築き上げ、栄光を表すために来られた。」(Gill, Mattew 24:30)



 まとめると、マタイ24・30の「人の子が天にいるしるし」と「天の雲に乗って来る」という表現によって言われていることは、先に引用したダニエル7・13の預言の成就であり、そのメッセージは次のようなものです。

 (1)神の右の座に着き、王権を取られたこと。
 (2)全世界がキリストの王国の国民になること。
 (3)キリストの王国は永遠に滅びることがなく、歴史において拡大して全世界に及ぶこと。

(つづく)



(*)原語αιωνの主要な意味は、「時代」ですが、それから、「世界」という意味も派生しました。しかし、この24章を見ますと、数々の前兆やキリストの来臨の記事の後に、「これらのことが起こらない限り、この世代は過ぎ去らない。」と締めくくられているので、「時代」と訳するのが適当と思われます。
 多くの英訳聖書が、これを「時代」と訳しています。

Tell us, when will these things be, and what [will be] the sign of Your coming, and of the end of the age?(NASB)

Tell us," they said, "when will this happen, and what will be the sign of your coming and of the end of the age?(NIV)

Tell us, when will this be, and what will be the sign of your coming and of the close of the age?(RSV )

(**) 旧約聖書において、「いなずま」は審判を象徴しています。

「主は彼らの上に現れ、その矢はいなずまのように放たれる。」(ゼカリヤ9・14)

「あなたの裁きは、光のように現れる。」(ホセア6・5)

「かすめる者が彼らをかすめ、・・・槍は揺れ、戦車は通りを狂い走り、広場を駆けめぐる。その有り様はたいまつのようで、いなずまのように走り回る。」(ナホム2・3−4)

 雷は、出エジプトにおいて、主がエジプトに下された裁きの一つでした。

 「モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。・・・雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。」(出エジプト9・23−24)

 黙示録では、「いなずま」は、旧約聖書の象徴的表現と関連しており、同様に、主の審判を象徴しています(4・5、8・5、11・19、16・18)。






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