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>任を感じているならば、聖書に示されている規範を重視するのが当然>
>であり、心情的な謝罪でことを済ませるはずもありません。>
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聖書に示されている規範に反していないと思います。>
富井様ご自身の解釈の仕方が違っているのだと思います。
誰との関係においてもそうですが、「謝罪します。」と言えば、「あっそうですか、責任を認めたのですね。
それじゃあ、罪に応じた償いをしてもらいましょう。」と言われるのが当然です。
それに対して「あの〜、謝罪はしますが、責任は取りたくないんです。
謝ったんだから赦して。」と開き直ったらバカにされます。
ご存じのように、聖書において、償いのない赦しはありません。
泥棒をしたら、盗んだものの5倍(または4倍)の価値のあるものを添えて返すように律法は求めています。
故意の殺人をしたら、生命が代償です。
償いのない赦しがこの世にあり得るならば、キリストの十字架は無意味です。
キリストの十字架の死が必要であるのは、人間の罪は代償を必要としているからです。
もし謝罪だけで済ませられる、代価を払う必要はない、ということなら、キリストの十字架は
無駄死にということになりませんでしょうか?
そもそも、教会の中に閉じこめて焼き殺したことに対する謝罪が、土下座で済まされると考
えていること自体に、「安易さ」とか「むしの良さ」を見てとるのですがいかがでしょうか。
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> 心情的反戦論はときに戦争を拡大します。>
> 国際紛争の解決において戦争は独立国として正当な手段です。>
> 戦争になる前になんとかするために抑止力を持つ必要があり、核兵>
>器には核兵器をもって対抗する以外にはありません。この世が天国で>
>はなく、悪が存在する以上、その悪を抑制する手段として対抗できる>
>だけの武力は必要だということでしょう。では、警察が武力を持つこ>
>とも悪なのでしょうか。>
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2回の世界大戦があり,その前の時代の戦争の考え方と今後の戦争とい>
うことと同一には考えられないのは当然のことです。>
今後の戦争は核兵器を含むわけで,その場合には世界が破滅するのです>
から戦争をくい止めるためにはあらゆる努力を払わなければならないと>
いう点では全世界が一致しているわけです。
話し合いで戦争をくい止めることができれば、どこも武力などは持つ必要がない。
陳腐な平和論や宥和政策によって、先の大戦は戦火が拡大してしまった。
バルト3国を見捨て、ポーランド、チェコの人々を戦火にさらし、無辜の国民を見殺しに
したのは平和主義者だったことを忘れてはならない。
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ですが,くい止めるための手段として,「核兵器には核兵器を」という>
のはこれはもう富井様ご自身の意見でしかなく,キリスト教界の一致し>
た見解などではありません。
それでは、日常的にテロに悩まされ、現実に戦争の臭いを感じながら暮らしているインドや
パキスタンの人々に対して、あなたは、「隣国が核兵器を所有したけれども、あなたの国だけ
は核兵器を持たずに頑張ってください。」と言うのか。そう言うことが言えるだけの保障をするこ
とができるのか。日本がインドやパキスタンの核攻撃の抑止力になるだけの安全保障を提供で
きるとでも言うのか。
もしどちらかが実際に核攻撃を受けたときに、あなたは、そのように要請したことの責任を取る
ことができるのか。