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無神論者との対話の可能性



(Q)ところで一つお考えをお示し願いたいのですが、私たちが聖書の神を聖書に基づいて記述すること自体はいっこうに構わないのですが、無神論者に「聖書の神」を示す事にいかほどの意味がありますでしょうか?特に説得を意図してなされる場合において。

何が言いたいかと申せば、「神は根源者ゆえ証明の対象にならない」ということは、「聖書の神」を信仰する私たちには言える事でしょうが、神が「根源者」でない無神論者に通用する言説だろうかということです。

もっと言えば、そういうディベートが成立するものだろうかと、かねてより思っているのです。

(A)無神論者との議論の共通の土台をどこに置くべきかという問題は、非常に重要な問題だと思われます。聖書の神を土台として、上から下へ説教をたれる式の発言は、バイアスがかかっているので無効であるとの意見もあります。しかし、バイアスの全くかからない意見というものは、そもそも存在しないのではないかと思われます。というのは、「神を前提としないで議論しよう」と言って、議論を開始した瞬間から、両者は共通の信仰の土台の上に立つからです。それは、「人間の理性は、神なしに自律的に正答を獲得し得る」という信仰です。聖書を信仰する者は、この土台は「人間理性は、(1)派生的理性である故に有限であり、(2)罪によって曇らされているのでバイアスがかかっている」という聖書の教えと異なるので無効だ、と主張します。

 つまり、聖書を信じて聖書から論じる者と、聖書を信じずに自律的理性から論じる者は、互いに相手を「色眼鏡」を掛けていると述べるのです。つまり、両者は、どちらもそれぞれの権威を前提として語っているのです。いかなる権威も前提とすることなしに議論することは不可能であり、両者の話し合いはそれゆえ平行線を辿るのです。もし、聖書を誤りのない神の御言葉であると信じる者が、理性の自律性を主張する相手に合わせて、相手の土俵に入ると、その入った瞬間から、その聖書信仰のクリスチャンは自分の権威を否定したことになります。

 どの学問でも思想でも、前提とか信仰を土台として成立しているのであって、ある意味であらゆるものは宗教的確信の上に成立していると言うことができます。

 したがって、人間は、「実を見て木を知る」という識別法しか与えられていないということができます。クリスチャンは、聖書を前提とし、三位一体の神を究極の権威として物事を判断します。そして、その権威に立つことによって、どのような生活が生まれるのか、その思考や世界観が、どこまでも首尾一貫したものになり得るのか。他方、無神論者は、その無神論の前提に立って、自分の生活と思考と世界観を首尾一貫したものにできるのか、それぞれ証明しなければなりません。

 無神論を主張するならば、万物の起源について神ぬきに説明しなければなりません。そして、例えば、戦争反対、死刑制度反対、と彼が主張するならば、その主張の根拠はどこにあるのか、神を前提とせずに首尾一貫した理由を示さなければなりません。もし創造神を否定して、進化論が正しいと主張するならば、なぜ、進化にとって役立たないと判断される劣等者を殺してはならない、と言えるのか。(実際進化論者は劣等民族の絶滅を図ったことがありましたが。)もし、倫理を決定した神の存在を否定するならば、どうして、ホモセクシュアルや人工中絶は悪い、と言えるのか。「いや〜、だってそれは人間としてやってはいけないことでしょう。」では、証明にならないのです。

 改革主義神学者のヴァン・ティルは、「無神論者は、父親の膝の上に座って父親の横面をはたいている子供に似ている」と言いました。つまり、無神論者が神を否定するには、神の造った論理的・倫理的世界に依存せざるを得ないのです。もし、万物が、目的と秩序の神によるのではなく、偶然によって成立したのであれば、論理を思考の前提とすることはできないはずです。さらに言えば、秩序や目的や倫理を価値として議論してはならないはずです。

 ある哲学者は、その著書において人生の無意味を主張し、普遍的倫理を否定しながら、戦争反対を唱えました。彼は、結局自分の前提に忠実であることができなかったのです。  無神論を貫き、自分の人生をその前提に徹底的に忠実に従わせようとすれば、結局のところ、それを否定せざるを得なくなるでしょう。いくら「引力は存在しないんだ」と叫んでも、高層ビルから飛び降りれば、地面にたたきつけられるだけなのです。この世界は神によって創造され、神の目的に従って動いているので、その権威を自ら進んで認めなければ、結局、認めさせられてしまうのです。




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