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動物犠牲の意味



(Q)人間が動物の上に君臨するという発想は家畜などの殺傷権を握り不浄であった自己への弁護のように思われます。しかも神まで生け贄を欲すると見なすのは自己の罪悪感の投影の様にも思われるのです。

(A)そのように思われるのは自由だと思います。事柄を裏側から見ていくというのも、真理を発見するための有効な手段だと思います。しかし、キリスト教における犠牲制度には、大きな一貫した体系があって、そこまでも含めて反論する必要があると思います。  聖書において、動物犠牲は、キリストの犠牲を指し示すものでした。キリストが来るまで、犠牲律法はキリストを迎える準備をしました。つまり、人間の罪は、死に値するほど深刻であることを示すために、神は、動物の血を流させたのです。「血を流すことによらなければ赦しはない。」とパウロは述べています。人間の罪は死によって以外には解決できないものです。「罪から来る報酬は死である。」(ローマ6・22)しかし、動物によって人間の生命が購われるとは、聖書は述べていません。つまり、人間の生命は人間の血による以外に贖うことができないのです。キリストは人間となって人間の罪の身代わりに死にました。彼は神であったにもかかわらず、人間の姿を取らなければならなかったのは、このためなのです。キリストの十字架上の死によって、人間は死の刑罰を免れます。

 動物の血が流される時に、人はその動物の頭の上に手をかざして祈りました。そして、自分の罪がその動物に転嫁されたと信じるのです。しかし、それは、来るべき救い主の象徴でしかありませんでした。旧約の人々は、このような犠牲をメシアの到来を望みつつ行ったのです。




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