神の存在を証明することの愚について
近代になって、人間は、人間の自己意識から出発して物事を知ろうとしました。神が認識の出発点にあるのではなく、人間の意識が物事の認識の土台となったのです。デカルトは、「我思う故に我あり」と述べて、疑うことができない自分を万物認識の出発点にしました。「人間は誤謬に陥りやすい。それゆえ、常識と言われているものも迷信に過ぎないのではないか。迷信を排除するにはどのようにすべきか。」と自問した結果、デカルトは、迷信からの解放の鍵は、「懐疑」であると考えました。
すべてを疑わなければならない。神が存在すること、キリストの十字架の贖罪、これらも彼にとって懐疑の対象となりました。疑うことができない唯一のものは、自我でした。今考えている自分、これこそ、唯一確実な現実ではないか。疑っている自分は確実に存在しているのだ。それでは、この現実に存在している自分が、さわっている目の前の冷たいテーブル、これも存在する。そのテーブルが存在することを支えている床も存在する。・・・このようにして、認識を回りの世界に拡大していくことが彼の認識の方法でした。
さて、神が前提となるのではなくて、自分が前提となる。これは、一見すると極めて理性的な認識の方法であるように見えますが、大きな問題をはらんでいたのです。
というのは、神の存在の証明が、人間の理性に依存することになったからです。神が人間を救うのではなくて、人間が神の存在を証明し、神を救ってあげなければならない。このような逆方向の救済が、近代人の神観の中心にあるのです。自然主義神学の認識の基本はここにあります。
しかし、聖書の神は「我は有りて在るものなり I AM THAT I AM」「存在する者 HE WHO IS」というお方です。つまり、自存のお方、万物の根源であり、何物にも依存せず、完全に自己充足される絶対者なのです。万物はこのお方から出ており、このお方に絶えず依存しているのです。したがって、認識の出発点を派生的存在である人間に置くことは本質的に誤りなのです。ですから、根源者を派生者が証明するということ自体が、矛盾した行為なのです。神は証明すべき対象ではなく、前提とすべき方です。
神から万物が出ているので、万物の解釈は、神の解釈でなければならない。神が、どのように、例えば、この目の前のコップをご覧になっておられるのか、これだけがコップの真の意味なのです。
人間の認識は神の認識の追認識でなければなりません。神を真の解釈者としてすえなければ人間は正しい認識を得ることはできないのです。政治・経済・芸術・スポーツ・家庭・教育・・・あらゆるものは、神の意見に依存しています。神が良いと言ったものが良いのであり、神が悪いと言われるものが悪いのです。神の上に善悪が存在するわけではありません。
したがって、万物は、神の御言葉にしたがわなければならず、その時にはじめて存在の意味を回復するのです。人間の目的は、神の副官として、万物を神の命令どおりに動かすことにあります。歴史はこのために人間に与えられています。時間が経過すればするほど、神の意志がこの地球上に実現していきます。なぜならば、時間は神の意志の実現のために創造されたからです。
神は、歴史の中で、勝利に勝利を重ねていかれます。政治も経済も国際関係もあらゆるものが神の御言葉にしたがって運営されることになります。その時、万物はその創造の本来の秩序に回復し、繁栄と幸福を享受することになるのです。
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