マタイ24章は終末預言か?
(Q)当教会では、支援宣教師の写真が世界地図とともに会堂に貼られており、その上に、マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」のみことばが掲げられています。12/28の「マタイ福音書24章34節質問のお答え」でのご見解:
「この『神殿』が崩壊する時は、一体どのような時か」というのが、弟子たちの質問でした。それに対してイエスがお答えになったことが「戦争や戦争のうわさを・・・、地震やききんが、・・・福音が全世界に・・・」という前兆の預言です。したがって、これらの預言は70年にユダヤ戦争によって神殿が崩壊するあたりで成就しているのです。
によれば、こうした引用は不適切だとお考えですか。このみことばは、よく宣教団体の機関誌にも見られる引用ですが。
(A)マタイ24章4−33節の予言は、文脈から考えると、世界の終末を指すのではなく、旧約時代の終末(注1)を指す、と考えざるを得ません。なぜならば、マルコ13・4を見ると、弟子たちがイエスに尋ねたのは、「いつそういうこと(エルサレムの神殿の石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してないということ=神殿崩壊)が起こるのでしょう。また、それらがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」ということだからです。これは、最近ユダヤ人がモリヤ山に建てようとしている神殿を指すのではなく、「イエスの時代に建っていたその神殿」の崩壊を指しているのです。(注2)ルカではもっとはっきりしています。「『あなたがたの見ている』これらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。」(21・6)つまり、「あなたがた」とは、まぎれもなく、「イエスが語りかけている目の前の人々」であり、その「見ている物」とは、「その時(紀元1世紀)に存在した物」なのです。いわゆる預言の二重性[この預言が第1世紀と終末に二度起こるとする考え]をここから読みとることはできません。
また、34節「これらのこと(つまり、戦争や戦争のうわさを・・・、地震やききんが、・・・福音が全世界に・・・太陽は暗くなり・・・人の子が天の雲に乗って・・・)が全部起こってしまうまでは、『この時代』は過ぎ去りません。」を見ると、「前兆」は「この時代」の終末を指し示すことが判ります。「この時代η γενεα αντη」の γενεα という言葉は、辞書を見ますと、"an age (i.e. the time ordinarily occupied by each successive generation), the space of from 30 to 33 years" (Thayer's E.G.Lex. N.T)とあり、1世代(30 年から 33 年)を示す(注3)わけですから、「イエスが生きていた同じ世代」が過ぎ去る前にこの前兆が起こると見なければならないのです。つまり、イエスが十字架にかかったときに群衆が「この人の血は私たちと子どもたちの上にふりかかってもよい」と叫んだように、大患難はイエスの同時代人の上に下るのです。
ですから、4−33節の「戦争や戦争のうわさを・・・、地震やききんが、・・・福音が全世界に・・・太陽は暗くなり・・・人の子が天の雲に乗って・・・」という前兆は、ティトスの神殿破壊(紀元70年)の前に起こっていなければなりません。
では、本当にこれらの前兆は、紀元70年の前に起こったのでしょうか。
新約聖書やユダヤ人の歴史家ヨセフォス(『ユダヤ戦争』)は、これらのことがエルサレム陥落の前に起こったと記しています。例えば、にせメシアとにせ預言者・背教(5、10ー13)については、『ユダヤ戦争』ii:xiii:2-6において次のように記されています。「外面的には善良そうに振る舞うのだが、心の中では悪いことを企んでいる人々もいたのである。彼らは、これらの殺人と同様に、街の平和を乱す輩であった。彼らは、神からの啓示を受けたと称して、人々を惑わし、・・・民衆を説き伏せて、彼らに狂人のように振る舞わせ、荒野に導こうとした。それは、荒野において、神が自由のしるしを見せてくれるからであった。ペリクスはこれを謀反の始まりと考え、騎兵と歩兵を送り、彼らの多くの者たちを殺害した。」このほかにも、多くのにせ預言者、にせメシアが現れたとの記録があります(注4)。
飢饉(7)については v:x:3 に、「飢饉があまりにも酷かったので、人々は謙遜さを失い、子どもたちは父親が食べようとしているものを口から取り出して食べた。・・・」や使徒11・26などの記録があります。
戦争(6)については、v:ix:4 に、戦争の予兆が記され、ヨセフォス自身が戦争を企む者への自制を呼びかけています。迫害(9)については、パウロやペテロの殉教など、エルサレム陥落直前、ネロ帝の時代に大きな迫害が起こりました(64−68年)。
世界宣教(14)については、エルサレム陥落の数年前にパウロは次のように書いています。「この福音は、・・・あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。」(コロサイ1・6)また、「この福音は、天の下のすべての作られたものに述べ伝えられているのであって、・・・」(同1・23)とも記されています。また、ローマ教会に対して、「それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」(ローマ1・8)と述べ、福音の声は「全地に響きわたり、そのことばは世界の果てにまで届いた。」(同10・18)とも宣言されているのです。つまり、エルサレム崩壊の前に、福音は全世界に伝えられたと、パウロは述べているのです。
荒らす憎むべき者(15ー18)とは、ダニエル書9・26ー27に書かれている「翼に現れる『荒らす憎むべき者』」を指していますが、ヘブル語の「憎むべき者」は、旧約聖書全体において、「偶像」「偶像崇拝的行為」とくに、イスラエルの敵の偶像崇拝を指します(例・申命記29・17、第一列王11・5、7、第二歴代15・8、イザヤ66・3、エレミヤ4・1、7・30、13・27、32・34、エゼキエル5・11、7・20、11・18、21、20・7ー8、30)。ですから、これが異教徒を意味することは明らかです。また、ルカの平行箇所と対比すると:
マタイ「『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つのを見たならば、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」
ルカ 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」
つまり、「荒らす憎むべき者」とは「エルサレムを侵略する異教徒」なのです。実際に、偶像崇拝者であるエドム人がエルサレムを侵略した時(68年)に、このとおりのことが起こりました。
ヨセフォスは、エドム人2万人がエルサレムを包囲したときの様子を次のように述べています。「夜にすさまじい嵐が起こった。強い風と雨、止むことのない稲光と恐ろしい雷鳴、そして、地震。すさまじい振動と地鳴り。これらは、人々の上に襲いかかる破壊の前兆であった。・・・」この時が、エルサレムの住民にとって最後の脱出の機会でした。
エドム人は城壁を破って、まっすぐに神殿にかけ込み、そこで、8500人の喉をかき切りました。神殿は血だらけになり、彼らは狂ったように街路に出ていきました。ヨセフォスは、「これが、街の破壊の始まりであった。」と述べています。
「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(29)については、これを人工衛星の落下だとか、皆既日食だとかという解釈がありますが、聖書象徴学から見ると、まったく異なる意味になります。太陽と月と星は、創世記1・14−16において、昼と夜を「治める」ように任命された神の下僕です。また、他の箇所では、天体は地上的権威者や支配者を象徴しており、彼らに対する神の刑罰は、「宇宙の崩壊」として描かれています。例えば、イザヤは、バビロンの滅亡(紀元前539年)について次のように預言しています。
見よ。主の日が来る。残酷な日だ。
憤りと燃える怒りをもって、地を荒れ廃らせ、
罪人たちをそこから根絶やしにする。
天の星、天のオリオン座は光を放たず、
太陽は日の出から暗く、
月も光を放たない。(イザヤ13・9−10)
エドムの滅亡についても次のように預言しています。
天の万象は朽ち果て、
天は巻き物のように巻かれる。
その万象は、枯れ落ちる。
ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。
いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。(同34・4)
サマリヤの運命についてアモスは次のように述べています。
その日には、−−神である主の御告げ。−−
わたしは真昼に太陽を沈ませ、
日盛りに地を暗くし、・・・(アモス8・9)
これらは、けっして文字どおり起こりませんでした。天が巻物のように巻かれたことも、天体が枯れ落ちてきたことも、真昼に太陽が沈んだことも、歴史始まってこのかたけっして起こらなかったことです。ということは、これは、文字どおりの解釈をしてはならないことを意味します。つまり、聖書には、聖書的言葉の用い方があって、このような象徴的言い回しを理解しないと、とんでもない解釈をしてしまうことになります。イエスの預言を聞いた人々は、旧約聖書に親しみ、これらの聖書的象徴について通じていたので、それが何を意味するかを理解することができました。しかし、我々日本人はこういった象徴の用い方に通じていないので、特に黙示録の解釈は慎重にすべきだと思われます。黙示録は、旧約聖書の象徴がふんだんに用いられていますので、旧約聖書の知識を前提に学ぶ必要があると思われます。
そこで、マタイ24・29においてイエスが述べられたのは、イスラエルの光が消え、契約の民が存在をやめることを意味しているのです。つまり、これは、紀元70年に成就しました。
注:
1.旧約時代の終末とは、神殿及びそこで行われる犠牲制度の終焉、イスラエル民族を通して神が御心を行っていた民族的経綸の終焉を意味します。それにかわって、新たに、超民族的・普遍的経綸の時代が到来しました。
2.「『この』大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたままで残ることは決してありません。」イエスが指したのは、一般的な神殿ではなく、「この」神殿でした。
3.γενεα を「民族」と解釈する意見もありますが、聖書にはユダヤ民族全体を現す箇所は1つも存在しません。福音書においてこの言葉は次の箇所で用いられていますが、すべては「同時代人」という意味で用いられています。マタイ 1:17; 11:16; 12:39;, 41, 42, 45; 16:4; 17:17; 23:36; 23:34; マルコ 8:12, 38; 9:19; 13:30; ルカ 1:48, 50; 7:31; 9:41; 11:29, 30,31,32,50,51; 16:8; 17:25; 21:32。
4.「・・・さらに巧妙にユダヤ人を惑わすエジプトのにせ預言者が現れた。彼は、自らを預言者と称し、3万もの惑わされた人々を荒野に集め、オリーブ山と呼ばれる山に導いた。そして、そこからエルサレムに突入するつもりだったのである。・・・しかし、ペリクスはこの計画を阻止した。・・・このエジプト人はいく人かを連れて逃げて、つきしたがった人々の大多数は殺されるか生け捕りにされた。残りの群衆は自分の家に逃れ、そこで息を潜めていた。・・・」
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