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マタイ24章は終末預言か?Part4





 24章の解釈について、様々な解釈があります。なぜ私がこの問題を重要視するかというと、大患難時代をどのようにとらえるかということはクリスチャンのこの世に対する見方に重大な影響があるからです。つまり、これから大患難時代が来て、教会の力が弱くなって、背教が起こるという24章の預言を現代に当てられたものであると解釈すると、教会がこの世を弟子化するためのフィールドとしてではなく、あきらめと、そこからの逃避の場となってしまうからです。しかし、現実の世界はコンピューターの発達、科学技術の進歩、などめざましい発展があるのです。日本において、クリスチャンがこのような現実の移り変わりをどのようにとらえるかは、大変重要なことだと思います。コンピューターの発達をただ単なる反キリストの支配の道具であると考えるのか、それとも、神の御国の発展の道具であると考えるのかは大きな違いがあります。クリスチャンがハルマゲドンを信じて、終末に向けて浮き足立っている間に、この世の人々は着々と勤勉と労働と科学技術によって未来を築いているのです(新聞によると日本人の95パーセントがハルマゲドンがあると信じていない)。過去の歴史において、未来志向なのはクリスチャンの特質ではなかったのか?本当に建設的な働きをするには、未来志向になる以外ないではないでしょうか。

もし、本気で、この箇所を現代に適用する解釈を採用するとすれば、私は、クリスチャンと教会の未来はないと断言できます。なぜならば、かつて私が学生時代、終末論かぶれだったころ、私は自分の未来がなかった。自動車教習所に通っていても、もうすぐ再臨があって、新しい世の中になるのに、自動車免許なんて、と本当に考えていたのです。宇野正美やリンゼイや内藤正俊の本をむさぼるように読みました、その結果、私は「就職などするよりも伝道者になって一人でも多くのクリスチャンを作り、携挙してもらうのが先決だ。」と考えていました。実際、ビリー・グラハムは、1984年頃の伝道者会議において「今は、牧師よりも伝道者が必要な時代です。なぜならば、終末が近いからです。」と述べたのです。このような教えからは長期的計画に立った、戦略的キリスト教は生まれません。キリスト教は、とにかくこの沈み行く船から脱出することしか考えません。あるディスペンセーション主義者がつぎのように言いました。「沈み行く船の上の真鍮を磨きますか?」つまり、この世界は滅亡へ向かっているのに、そのような中で改革運動などやって何になるのでしょうか。という意味です。これは、アダムに与えられた文化命令の拒否です。このような、ファナティックな終末思想は、キリスト教と相いれないものであると言えます。その結果、アメリカにおいても、日本においても、クリスチャンが、自分に与えられた領域を変えるのではなく、それに触れないように触れないようにしているのです。そして、教育において、政治において、映画において、驚くべきスピードで世俗化が進行しているのです。クリスチャンが土俵に上がらないので、不戦勝でサタンがやりたい放題のことをやっているのです。アメリカにおいて最も大きなグループとなりうる4千万のクリスチャンが政治に対して積極的な活動をすれば、アメリカは大きく変わります。そして、その影響は全世界に及びます。アメリカのクリスチャンを弱体化させることは、サタンの大きな戦略です。サタンは最も効果的な戦いを行ってきました。それは、敵に武器を持たせないことです。つまり、敵が最初から戦いを放棄させることです。これが最も賢い戦争の方法なのです。武器を交えることは愚かなやり方なのです。まず、クリスチャンに現実問題は変えることができない、だから、そのような活動に参加することは無駄骨だ、と信じさせればよいのです。

サタンはこのようなことにおいて、大きな成功を収めてきました。牧師養成学校として始まったハーバード・イエール・プリンストンなどの大学は、今や、キリスト教の武器であることをやめてしまったのです。日本に於けるミッションスクールもそうです。ミッション大学で教えている学問は、ヒューマニストが神を前提とせずに組み立てた無神論的学問です。このような思想教育をして、どうして次世代のクリスチャンが強くなることができるのでしょうか。どんなに教会学校で聖書について教えても、無神論や進化論のカリキュラムをうのみにすれば、信仰は弱くなるのは当然です。ですから、クリスチャンは、ミッションスクールを奪回しなければならないのです。福音を正しく教えて、創造論に立ち、世俗無神論の教義を排除して、聖霊と聖書によって清められたカリキュラムに変えていかなければ、神に捨てられてしまうでしょう。




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